メモ イデオロギー闘争

今の世の世の中は、階級社会であり、うちに敵対的な矛盾を含む。
つまり、話せば解決する、では無いのである。

貧乏のことを問題にしようとすると、貧乏たたきがあり、
朝鮮人がさらされた従軍慰安婦を問題にすると、慰安婦叩きがある。

それは、賃金労働者(賃金と交換に、一定の時間、労働力を提供する契約をして生きている)と資本(賃金労働から一定の搾取をし、それによって成り立つ資本の増殖をなりわいとする人びと、システム)の間に敵対的矛盾があるからであり、さまざまな、叩き、イデオロギー操作、攻撃は、その敵対的矛盾を賃金労働者にきづかせないようにするために日々続いている。それ自体が儲け口となって、監視・労働という、第五次産業を形成してさえいる。第三次産業はそれでもまだ、基本的に生産労働の一過程である流通過程が自立したものであり、消費社会的飾りの無駄を含むとはいえ、有益なものであったし、管理労働の自立化であるIT 第四次産業も意義のあるものだった。が、この、部門はまったく社会にとっては無用なもの、ひたすら、今のシステムを守るために存在するものでしか無い。

そのような仕組みをバックにおいて、メディア上、ネット上で、イデオロギー闘争が日々戦われているのだ。

それは、ある事柄をめぐって繰り返される。それは存在しない、とひっくり返そうとし、いや、それは存在する、と逆にひっくり返す。
かつて、貧乏なおばあさんは実在するかどうかが問題となったことがあり、小説の題材にすらなった。豊かな社会の幻想が満ち満ちていた時代には、そんなことも置き去りにされていた。
今回、貧乏な女子高校生は実在するかどうかが問題となっている。もちろん、実在するのであり、そんなことは、社会における少しばかりの人生経験と、
まともな推理能力のある人ならば疑うはずないことである。だが、それは現にイデオロギー闘争に賭けられている。

かつて、社会変革家たちは、体制派と、自分たちのこの対立を、虚偽と真実の対立、思い込み(宗教、カルト思想)と科学の立場の対立と、要約した。いろいろ誤解のあったこの要約だが、やっぱり本質的に正しかった、と言わざるを得ない時期に来ているように思われる。


だが、これほど重要なイデオロギー闘争だが、それ自体の実証的な分析による問題提起がなさすぎる。
イデオロギー闘争の一般理論を繰り返すだけでは、現実のイデオロギー闘争を解明することも、それに対して方針を提起することもできないことは
七十年前以前、先人が、つとに警告し、具体的に克服しようとしていたことだった。

これはとても緊急に大事なことなのだ。菅井にも、ある感じはある。人間普遍の立場がおそらくは問題だ。かつてそれはヒューマニズムと呼ばれていた。