かつての和歌などにはも、人生で人が出会う、ある大事な出来事 が歌われていて、
人がそれに出会うとき、それにまっすぐ向き合うことの手助け、こころの準備をしていた。
というか、そのことがあったとき、はじめて、あの歌はこういうことを語っていたのだ
と気づくのだ。
そういう歌の蓄積、歌文化の実在は、かつての日本をかたちづくっていたもののような気がする。
短歌は、そうした出来事を、俳句はそうした時のこころのありのまま を描く。
物語があり 動きがあるのが短歌、その瞬間をカメラで切り抜いた写真のような俳句。
時は流れた。千年の長きにわたって詠まれつづけた人の行きさまも変わった。
膨大な定型詩からなるシステムは、現代からとりのこされ、クラシックへと
対応する人びとの生き様がかわり、定型詩の蓄積はそれを満たさなくなった。
歌垣、旅の途上の(のたれ)死に・・・
人も馬も旅に死すことは当たり前だった。馬頭観音の石仏・・・
とりわけ、共同体を前提にしての、歌垣、婚姻、家族の物語は
ゆっくりとだが、機能しなくなっている。
誰でもそういうもののもとで生きるべき共同態の崩壊。
家族の物語はいぜん強固だが、そういうものとは違う世界、人生もまた大きくなる。
家族の不在の物語、とでも呼んでおこう。
人はそれを流行歌に託す。あるいは定型詩の中での異端的なものに。