つながりの質としてのカワイい

人間はそのさまざまな質において、共鳴、共感、つながるものである。
それは、複数のレベルがあるので、むしろ、時代を経て、ほりさげられ、新しい質が発見されるのだと思う。
子どもらしさの発見というのも、新しい質のひとつだったし、また、こどもらしさの中も、ひとつではない。
われわれは、現に、萌え、ということばで、ひとつの相を最近発見した。「かわいい」というのは、女の子が発見した美の一つの相だったと思うが、同時に、可愛いという感情の質の発見であった。それは、ひとつの深みなのである。それは、男の子にも広がって、萌え、という対応物を発見させたのではないか。
人と人が信頼する、つながる、友愛、という現象は、こんなにも深いところからのものがあるのかと驚かされることもあるし、日常の絶え間のない軽いおしゃべりとしてあることもある。
それらの相の豊かさを知らない人にとっては、その人にいまだ知られていない連帯の相のあらわれは、どうって言うこともないのである。
かわいいと感じるというつながりの相があるのだと思う。従来それは、おとなが、幼い子どもに対して持つ感情であり、無力な子どもを大人に守りたいと思わせるものとして機能してきたものである。
だが、そういう限定された場面に役割存在的に機能していた一方向的な感情とあり方は、人間関係のつながりの一つの次元として、普遍的ななにものかになったのではないだろうか。
理性的な言語のある層での連帯は、思想運動や社会運動などで主に機能してきた質ではないかと思うが、それだけではない。
友愛、つながりは多様に、歴史的に発展、豊富化するものではないかということである。井戸はさらに深く掘られなければならないだろう。

この検証は、最終的には、それがある社会的に認知しうるつながりとか、運動とかにまで、転化して可能になるだろう。
そして、それらが当たり前の関係相の一つになったとき、旧時代の様子を思い出すことはもはや困難になるほどに、人情は変わるにちがいない