未成年の子供たち

一方で、選挙権行使年齢を下げるとかいわれているが、
他方で、地域共同体の解体、家族の解体を受けて、
むしろ、子供たちの自立、成長、イニシエーションの可能性は妨げられている。


子供たちはいつまでたっても、子供のまま、という傾向がある。


子供の特徴は、親、ないしは周辺共同体によって守られていることだ。
子供を守るのは、親、ないしは周辺共同体であり、子供は遊んでいることが許される。


だが、それとひきかえに、子供は、親と違う意見、意識、決定をもつことはできない。
親がある判断をしたら、子供もそう考えざるをえない。
少し、疑問や反発の感情が生じたとしても、親子関係がちゃんとしてればちゃんとしてるほど、
子供は親の意見を内化して、自分の意見だと思い込む。


自分の希望や願望があっても、親の意見にさからって、それを広げることはできない。
三者だって、それに干渉することはできない。


でも、それはやっぱり、哀しい。


昔だったら、反抗期というものがあった。
ま、大部分はやっぱり押し切られてしまうものだが、
でも、時には、家出、独立ということがあった。


その方がよいとも思わない。
過去には過去、今には今のあり方がある。


もし世の中が、表に出せる一枚岩のコトバだけでできているのなら、
子供たちに自由意志はないということだ。
だが、世界は、いくつもの輻輳する過程からなる多重構造体だ。
気持ちが出せる場があり、それを受け止める場があり、
十分な「階級闘争」(ま、比喩です)が行われうるなら、
「コトバ」は生まれるかもしれません。


そのときには、いったん生じた「コトバ」は行為となり、新しい現実となり、
もうもとにもどってしまうことはできない。

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別のことだが、ロンドンで拡大している若者の暴動について、日本でみうけるのは、「持てる者」の視点から、大変だ、という紹介が多いが、要するに、低所得でなまけもので、福祉にすがっている悪い連中が暴動起こしている、という論調だ。だが、発端となった黒人青年射殺をはじめ、広がって行く背景、原因をまともに紹介しているものではない。どうしてなのだろうか? 原因のようにみえてもよく読んでみると、税金から福祉だの教育援助だのしてるのに、なまけものでそれに答えず、暴動まで起こすのだから、けしからんと書いてあるだけなのだ。日本にはそんなに「持てる」者がいるのだろうか。いるのかもしれないが・・・

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別のことだが、きょうは長崎の原爆記念日。1945年8月9日、午前11時2分、広島についで、アメリカの第二種原爆、プルトニウム型原爆の実験体となった、長崎市。何万人もの人がなくなった。放射能障害はあとにのこった。差別もあった。
市長宣言は、市民の委員会が内容を討議してつくったという。その作られ方がよいな、と思った。