色彩を持たない田崎つくるの

すべてが必然性の中にあるような
哀しくも雄々しいストーリー

田崎つくるは、最後で理解します。

「ぼくはこれまでずっと、自分のことを犠牲者だと考えて来た。(中略)でも本当はそうじゃなかったのかもしれない。」。

彼女をおいこんだのは、名古屋という一地方都市の中で、色彩を放つことのなかった自分の、一人東京へ出て行くという行為だった。それがボランティアというか、セツルメントというか、そういうものを通じて生じた美しい共同体を破壊したのであり、それをもっとも体現していたユズを壊す行為だったということを。象徴的につくるがユズを犯し、また殺したといえるということを。

ユズは施設の地域の子どもたちにピアノを教えているとき、生き生きとしていたとあります。それは、ユズの見た未来と理想がどこにあったかをしめしています。つくるはその未来を共有できなかったから、東京に出て、駅の設計をし、他の三人はユズとともにそれを守ろうとして名古屋に残る。自分はここにいていいのかと反問していた若いつくるには薄々わかっていたはずです。それを認めたくなかっただけです。つくるが抜けた時点でそれはもう守られないことが決していた。ユズの事件とそれによるつくるの追い出しはそれをはっきりさせただけです。男のうち、一人はトヨタのディーラになり、もう一人はバランスをくずして、そしてもう一人も外国へ。ユズ自身も壊れてしまう。つくるはそのことを閉じ込めたままで、東京で生きのびる。

つくるの、真実にむきあう行為が、遅すぎた今になってやられ、アカが生き延びて、彼らのよりつどった施設に寄付をつづけていること、つくるが今になってもどってきて、自分はいきのびた、一方的な犠牲者などではなかったと知ったこと、何も残らなかったわけではないといったこと、などなどが明らかになります。だから、それらのことはなかったことになる何者かなどではなかったわけです。

事柄の意味はいまだに薄明の中で、姿を現してはいません。
でも、つくるの巡礼行為は、何かを少し明らかにし何かが少し変わる予兆をもたらしたのだと思います。

前作で、諸民出の異様なキャラクターをみごとに描いた村上氏ですが、今回は普通の中流階級の人々の話を書きました。過去には「特別」だったかもしれませんが、彼らの今のありかたは中流階級としては「普通」です。

圧倒的多数の諸民が、こうした人々を自分たちとは違う人だと思うのは当然なのですが、それでもここから何かをくみとることはできるのではないでしょうか。また、実際に中流階級の人々にとっても。

村上氏にはぜひ健康に留意して、全体小説、総合小説を実現してもらいたいと思います。