今進行しているいわゆる「改憲」の動きに反対する

  日本国憲法を変更するとはどうなることか。(暫定稿1)



 憲法改「正」という名の改悪は何がいけないか。動きは急であるので、自分の考えをはっきりさせようと思う。
 日本国憲法を変えようという勢力は、第九条をなくすことと基本的人権を制限することをねらっている。
 現在の憲法に第九条があり、基本的人権の尊重規定があることによって、われわれの日本国下の生活と権利が守られているのであり、憲法改「正」とはそれを破壊しようとしているのだということ、それが問題である。
 
 日本における人権抑圧の常態が幾重にも述べられるべきことは当然である。が、こと日本国憲法の擁護においては、それがあることによって、それでもなお、どんなにか人権が守られているか、という事実問題を、大は平和の問題から、小は日常のことにまで、きちんと言葉にする必要がある。60年間、我が国の人間は戦争に加わってこなかった。イラク自衛隊が出動している現在でも、戦闘で死んだ隊員は一人もいない。それは軍隊を持たないとする日本国憲法があるがゆえである。
 自衛隊は軍隊ではない。軍隊とは戦闘をするものであり。そして、軍隊には必ず司令官と兵士の2種類がある。司令官は死なないものであり、兵士は死ぬものである。戦争とは、民間人ももちろん死ぬが、平の兵士が死ぬのである。普通の人にとって、戦争に行くとは、殺しにいくことであり、殺されに行くことである。軍隊とは何であり、今の自衛隊とどれだけ異質であるかをはっきり認識する必要がある。憲法改正とは、自衛隊を軍隊に作り替えるものである。
 60年安保延長反対闘争における戦後革命の挫折以来の長期にわたり、保守支配がイデオロギーのレベルでも強まり、現在にいたっている。支配体制は、検閲を含めて、賃労働者階級の反抗とつながるようなものは、勝手にとりしまれるようにしようとしている。しかし、彼らは社会主義共産主義に対抗するためにも、自分たちこそ真の民主主義であるといいくるめる必要があり、そのイデオロギー的表現は新自由主義であるが、現行条文にしたがわなければならない。
 イデオローグの一部は、民主主義を認めなかったり、感情的な差別主義や排外主義であり、憲法を含める法律の権威自体を認めない無法者になっている。が、それを自分たちにとって都合のいいとみる新自由主義のメインは、そうはできない。マンガその他への検閲だって、まだはじまったところである。
 いうまでもなく、表現の自由を含む人権の抑圧、弾圧は、今の日本の国家、企業の支配体制に反対する動きに対して一番熾烈である。憲法の人権規定に限定され、好き勝手にはできないでいる。
 自衛隊と平和法制の矛盾、憲法内の天皇制と基本的人権の矛盾など、矛盾は多々あるが、今まさに改憲が議論されている部分は、日本国憲法のすぐれた側面である。
 
 日本人は、日本国憲法をもつことを誇りとすることを、歴代の政府の嫌・憲法の政策により、おさえられてきた。戦後の教育は、戦争を教え、平和を考えることを徹底的にさぼってきた。僕らの世代は近現代史をまともに教わっていないはずである。そうすることを偏向教育と呼んでとりしまった政府の責任である。だから、知らないのが普通になった。自虐史観などと言われるとそんな気になってもおかしくない状況が生まれてきたが、みっともないのは今の日本政府であり、そのしり馬にのって、民族排外主義的言説を都合がいいがために野放しにしている新・自由主義者である。国民ではない。