平和主義について 3

 明治国家と、敗戦後の現・国家の間には象徴天皇制軍国主義の排除、議会制民主主義、平和主義憲法など、断絶する面もあるが、連続する面もある。また、その連続という面では、むしろ満州国から、国家体制と支えた官僚層が連続してきているという見解も強まってきている。

 明治国家のなりたちを考えだして、坂本龍馬のこととか、改めて読みはじめている。

 学校で「維新」とか、「富国強兵」とか、江戸の東京への改名とか、いろんな変化があったことは知っている。が、「維新」「富国強兵」とかいう言葉は誰が言い出したのか? その時、そもそもどんな意味だったのか? なぜ、江戸は東京と名付けられたのか?

 攘夷を旗印にしていたはずの薩長政権はなぜあっさり、できるとその旗を下ろしたのか?

 もともと朝敵だった長州藩は、いったい何で、錦の美旗を掲げた官軍となることができたのか?いったい、いつ、朝敵でなくなったというのか?

 国学や、平田神道などが、幕末の志士たちのイデオロギーだったのなら、明治新政府ができて、まもなく、文明開化などと、すっかり、欧米模倣路線になってしまうのはなぜか?

 坂本龍馬は、薩長同盟で、倒幕のための軍事同盟を実現した、明治維新政府実現の大恩人であるというのは、本当なのか? 坂本の船中八策五箇条の御誓文の関係は? そして、御誓文と、帝国憲法体制との関係は?
  薩長政府の実現は、実は、イギリスが黒幕だったというのは本当にデマなのか?
 日本は本当に独立を保てたと誇ってよいのか?


 学校で習ったとき、そのいくつかは疑問に思わなかったわけではない。だが、明治国家もその輪郭をはっきりさせるには、多くの試行錯誤と、何十年かの時間がかかったのだから、とま、納得して、おおざっぱに通り過ぎてしまった。そして、何よりも、明治国家を、近代化と独立の達成としてとらえる史観(ライシャワー史観)の影響が強かった。日本の教科書は、つくる会の教科書も含めて、全て、基本的にはこの史観で書かれている、といっては言いすぎだろうか? ネット右翼たちの(明治)国家観ももちろん、これである。

 歴史に詳しい人には、自明のことも多いのだろうが、それらが、常識として知られている、ということはない。ただ、明治国家が大東亜戦争の敗北という、民族滅亡の瀬戸際まで日本を追い込んでしまったこと、それへの反省から出発した戦後民主主義の体制の意義が忘れられ、再び、過去の大国主義ヒステリーのような徴候が日本に現れてきていることを想うと、そもそも明治国家が何だったのか、ということはきちんと知られなければならない、と思えてならない。

 それは、勿論、明治国家の支配という事実を前提にして、その中で、日本の、そして世界のありかたに理想をもち、限られた情報の中でさまざまな模索をした日本人の努力があったことを否定することではない。
 
 それにしても、少し、調べてみると、明治維新政府の意義などではなく、あの時代、あれだけの大変動を、内戦などにおちいらず、基本的に平和裏に移行させた人々(それは薩長の側だけにいたのではない。むしろ、その反対なのだ)の智恵がすばらしいと、見えてくる。日本は、平和主義の国柄である。
 
 日本国憲法や平和主義をけなしているものは、日本の文化をよく学ぶべきだ。本当にそんなことを言っていてよいのか、よく考えるべきだと、思えてきている。