いじめにあっている子供たちがやっと獲得した戦いの手段、それが遺書などを残しての自殺である、ということは、認めなければならない。
実社会でも、インターネットでも、いじめは続いてきた。競争主義の資本主義イデオロギーにおいては、弱いこと、能力の低いことはそれ自体、たたかれる理由となる。弱者が言葉で抗議したところで、たたかれるお前が悪いのだとされ、ますますいじめられるばかりである。いじめは悪いというのは、きれいごとで、実際には、やっている側は自分のしていることが悪いなどとは思っていないのである。
そして、幾多のネット心中がおこった。だが、それはみずからの人間的尊厳を守る行為ではありえても、いじめ社会を変えることではなかった。
だが、イラクでの反侵略の戦いでの、自爆テロまでしての抵抗がアメリカのもくろみを打ち砕きつつあるのに呼応したかのように、いじめ告発の遺書を残しての自殺は、親たちも、責任回避の学校も、監督機関も、政府もゆすぶっている。
自殺予告の手紙が文部科学省に相次いでいることは文部科学省をゆすぶっており、教育改革とか、教育基本法の改正とか言っている政府の思っていることがどの程度のことなのかを白日の元にさらすことになっている。
いじめに対する教育委員会などの無策に抗議し、それが変わらないなら自殺するという手紙が届いているのに、それに応えて諸策をこうじることを宣言するどころか、犯人さがしのようにどこのだれかの特定をしようとするだけで、あとは
『命というものは、ひとつしかないものです。そして、命は自分のものだけでなく、生まれたときにお父さんとお母さんが腕の中に抱き取ってくれたものです。いろいろ言いにくいこともあると思いますが、誰かに必ず君の気持ちを正確に伝えてください。世の中は君を放っているわけではありません。』(いじめを原因とする自殺予告の手紙の公表及びお願いについて 文部科学省)
とお説教する。手紙は、世の中は「いじめ」を放っていて、心の問題だとみなしてがまんせいしか言わない、とすでに伝えているではないか。
三国人差別者としてその名も高い石原慎太郎現東京都知事は
「あんなものは大人の文章だ。理路整然としていて、私は大人のいたずらだと思う」「いじめられた子は、自分で戦ったらいい。ファイティングスピリットがなければ、一生どこへ行ってもいじめられる」(毎日)
と記者会見で語ったそうだ。言う言葉もない。
長州藩閥内閣総理大臣安倍晋三氏はいじめに悩む子どもたちに「君たちは決して独りじゃない」と、自殺を思いとどまるよう呼び掛け、いじめを行っている子どもたちに「いじめはいかに恥ずかしいか、よく考えてもらいたい」と首相官邸で記者団に答えた(時事通信)そうだ。それを放置してきた文部科学省は安倍氏が主宰している政府の一機関ではないのか。