利害の唯物論〜ネットにおける〜

菅井は、何度も表明しているように、哲学的に唯物論実在論)の立場をとっている。
詳しくは教科書に当たってもらうとして、
その唯物論から導き出される見方の一つは、利害の唯物論である。
経済的決定論は、利害の唯物論の一部分である。
功利主義とまぜこぜになることもあるが、
功利主義ではない。パワーポリティックスも、利害の唯物論の一種である。
ある個人、集団にはその個人、集団を突き動かす客観的な利害というものが存在するとみるのが
利害の唯物論である。まずもって存在論的な主張である。


2チャネラーネットウヨクは、将来の不安、展望の不在はあっても、現状は何とかやってきていた。彼らの保守政権擁護は、彼らのそのなんとか生きて行ける現状があってなりたっている。


靖国神社に参拝しても彼らに別に得はない。ネットで左翼的と認定された特定のサイトを攻撃したとしてももちろん得にならない。得にならないのに行動するというのは、一見利害の唯物論がまちがっていることの証拠のように見えるかもしれない。

だが、そうではない。彼らにはネットの先守者、ないしは優位性を守るという利害は存在したのである。炎上祭りは彼らのその立場の確認なのである。これは、彼らが、ネットは多様な人間の場であって、自分達だけに都合のよい意見や居心地の良い領域ばかりではないのだということを、事実で悟るまでは止まることはなかった。



それが、ここに来て、彼らのその先守性や居心地の良い場のベースそのものが、左翼とかではなく、国家とか裁判所とか、別のものによって危機にさらされつつあることが明らかになってきた。たけくまさんの報じた著作権法違反の親告罪化とか、ネット上の貸しハードディスクスペースを個人に貸し出すことの禁止判決などが伝えられたことである。

今までは、ネットの自由の規制とか、監視・検閲というのは、共産主義国の話だと思っていた彼らは、資本主義の日本、彼らの支持擁護する小泉・安倍政権や日本国家がそれを進めていることに気がつきはじめている。これは、精神の自由の侵害ということなのだが、要するに、基本的人権の侵害ということなのである。

日本国憲法では、基本的人権、思想・信条・表現の自由等は法律で規制することのできないものである。ところが。政府が好き勝手に立法でき、法律であれこれの基本的自由を制限抑圧、事実上の自由の停止までできるとするのが、安倍晋三のねらう憲法改正の要点なのである。法律があれば制限できてしまう自由は大日本帝国憲法の権利条項と同じで、本当の自由ではない。安倍改憲は、実質旧憲法にもどることなのである。

この改憲とのつながりまでは、まだ2チャンネラーやネットウヨクは自覚していないが、とにかく、自分たちの精神の自由の拠点(2チャネラーにとっては2チャンネル)まで、国家によって奪われてしまいかねない、ということになっているのに気がつきはじめた。


利害の唯物論が正しければ、彼らは今までどおりのように、国家を支持しつづけていくことはできなくなるだろう。