ヒロシマ

 今右翼系サイトが一斉に取り上げているのは、農水大臣の自殺でも、年金問題でもなく、広島の平和文化センター、平和記念資料館の人事ばかりのようだ。
 核廃絶をめざすアメリカ人が理事長にはいり、展示等の検討をする委員会に、韓中の人も含めて広く行おうという抱負を攻撃している。
 だが、新理事長は核廃絶論者でそのための改革で、問題とすべきは何もない。核の使用が合法だと言おうとしているのではない。もう少し広い視野でとらえねばならないというのである。
 この場合、広島を政治利用しようとしているのはどちらであろうか。右翼系サイトは、核兵器を本気で廃止しようとしているだろうか。そうではない。たとえば、極右評論の瀬戸氏などは、維新新風の街頭演説で、核武装の議論をタブーとするのはけしからん、といっている。まわりの国はみな核武装しているのにといっているが、非核化を言うのではなく、核武装することについても考えよといっている。広島は、核兵器の非人道性を自らの被爆体験を通して、誰よりも強く感じている。その目指すところは、核廃絶である。
だが、瀬戸氏は、その目標にはいささかも触れず、核武装の議論をというわけだ。広島の心をわかっていないのは、瀬戸氏の方である。彼は、日本が侵略戦争で行ったことより、広島で日本がやられた方がひどいから悪いのは向こうだと言いたいらしい。だが、広島の本質は、どちらがより悪いかではない。戦争、わけても大量破壊兵器である核の非人道性であり、それをなくさねばならないということなのだ。
 「ヒロシマ」というルポルタージュは、戦後もっとも早く、核の恐ろしさを世界に訴えることになった本である。被爆した日本人、ドイツ人に聞き書きして書かれた、アメリカ人作家のその本がきっかけとなり、戦争では敵味方だった日本人とアメリカ人が民間レベルで共同で核兵器の悪を考え訴える組織が生まれようとした。それは、いろいろな事情で充分に発展できなかったのであり、反核運動の主流は、第五福竜丸事件をきっかけとした核実験への抗議にはじまる反米的なものとして展開することになる。両者が充分に結びつかなかったことは、残念なことだったのだ。平和文化センターは実は前者の流れをひいてつくられたものであり、アメリカ人の理事長が出ることはむしろこのセンターにとってはふさわしいとも言える。
 市民とむすびついた情報センターとして、平和記念資料館を充実させてほしい。
 
 広島の悲劇は、単に日本の悲劇ではない。その後の核実験で拡張され、ヒバクシャと書かれるようになった核実験の犠牲者たちも含め、世界中に広め、訴えられなければならないことである。
 新理事長の言葉を曲解しておいて、「愛国」を理由にしての、自身の排外主義的な狭い心を押し付けようとする右翼系サイト人たちの視野の狭さは改めてもらいたいものである。