嫌煙ファシズム考

 嫌煙ファシズムという言葉は小谷野さんがつくったものだと思うが、
嫌煙運動の始まりがナチズムの健康崇拝にあること、嫌煙運動の総本山、アメリカがかつて禁酒法というこれまた健康ファシズムを展開し、失敗に終ったことをふりかえると、まとはずれな命名とは思わない。

 私がこの潮流とはじめて接したのは、20年くらい前である。煙草の害を熱心に説き、室内では煙草厳禁を言い渡すヒトに初めて会った。そこは、人々のたまり場であったから、煙草を嗜好する古い人々はとまどい顔であった。かれは近代医学の信者ではなく、むしろ気だとか、手かざしだとかの健康法を尊重していたヒトだが、ぼくにも、煙草を吸ったからだの気はこんなにも悪くなるのだとやってみせてくれた。彼のまわりの似たようなヒトたちは、みなそれを信じていた。煙草を吸いたいヒトはしかたなく、外に出てめだたぬように吸っていた。
 私は、喫煙経験者だが、常習者ではなく、吸わなくても平気で、煙草を吸う彼女と別れてからは、事実何年も一本も吸わないでいた。
 だが、そんな僕もこれはなんだか、不自然だな、と思った。僕にとって、煙草とは、まずインディアン(ネイティブアメリカン。どっちもよい呼び名とは思えないが)の社交文化、儀式であるという観念がある。ヨーロッパやアメリカで白人の間にさまざまに発展、日本ではきざみ煙草の文化を生んだ。それを体によくないくらいのことで、そんなに即座に排除してよいのか、と思った。
 たしかに、江戸時代に普通に使われていたお化粧の粉には鉛がはいっていて、丹毒という病気をひきおこした。その因果が解明されてから、化粧用品に鉛は使われなくなっているる。それは悪い事ではない。化粧そのものが禁じられたわけではないから。
 というか、毒であることが本当なら、その使用は禁止されるべきで、ちゃんと売られている物について、それをいやがらせのように使えなくするのはおかしい。麻薬のように禁止しないのは、毒性の証明が完璧ではないからではないか。煙草を吸ったヒトが、10年でガンになって一人も生き延びないなら、こんな反論はもちろんありえない。
 分煙化まではがまんした煙草飲みが、あらゆる場所から排除されるようになったため、いたたまれなくなって立ち上がったわけだが、排除の根拠は受動喫煙だそうである。だが、この害の科学的論証なるものにはいくつも疑問が出る。
 そして、小谷野さんが問題提起して以降、それをくさすヒトは、煙草のニオイがいやだ、煙がいやだ、だから煙草飲みの方が出て行け、を当然と主張する。健康問題というよりは、好き嫌いの問題なのである。一度清浄な空間を経験すると、もう煙草の煙やニオイやヤニのある世界にはもどれないのだそうである。私は、この後者の感覚のエスカレートが禁煙ファシズムの根底にあるもので、都市の清浄化(ジェントリフィケーション)と同一のしくみなのではないかと思っている。都市の活気のあるワイザツな空間をおしゃれで衛生的な空間に変える町づくりなどがあちこちの駅前で進んでいるのとおなじだ。
 だから、喫煙者の主張は、そういう感覚をあたりまえとする空気の中で、話合いではなく、集団吊るし上げのようなものにさらされている。やっている当人は自分のその感覚を疑わないのだからそうなる。ネットをざっと見ていても、そういう発言が多数である。
 住み分ければいいので、何メートル先の煙草を受動喫煙の害といって条例などで禁じていくのはどう考えても行き過ぎだ、という小谷野さんたちの主張をわたしは理のあるものだと思う。
 
 最後に、この問題は以下のシンプルな問いに行き着くと思う。
 煙草は嗜好品であるか、それとも、毒物であるのか。私は嗜好品だと思っている。