身捨つるほどの国家

天木さんが、今の官僚国家を擁護するに足るものか、と書いている。
すっかり国家の「公」性にがたが来ている。かつて、外国の新興国の政治の情況が新聞に報じられると、一部の人間の利権のために存在している政府のように見えて、日本の国家や政府とは随分違うなあ、と思ったことがある。菅井にも日本の政府に対して信頼があった頃だ。
だが、今、日本の国家は少しも「公」的な立派なものに見えなくなってしまった。見えなくなったということと、実際にそうでないということは区別されなければなるまい。でも、これで本当に国家といえるのか。
年金はつかいこんでしまって、制度を維持するためだけに増税しなければならないといってるそうで、自民党員でさえ、年金制度はつくりなおさなければならないと思ってる人がいる。人々のコミュニケーションの要でもある郵便も、日本国家はやらなくなった。国立大学も国立病院も民営化である。4月から、老人医療差別の新制度が発足する。新・うばすて山である。自衛隊も国民を守るどころか、アメリカの戦争にかり出され、アメリカの軍隊を守り、アメリカまで行ってミサイル訓練をし、帰って来て、漁船をさけようともせずに踏みつぶした。ダンプカーが人をはねたくらいの大きさの違いだった。政治家は常識のない失言をくりかえし、責任をとらない。町中では予算消化のためいたるところ、工事中で人も車も迂回しなければならない。なかでも、立国の要であるはずの憲法を確信を持って擁護しようとしないばかりか、すでにそれをはるかに逸脱した行為をいくつも積み重ねている。イラク派兵だけではない。
なんだか何のための国家なのですか、と天木さんでなくとも想わざるを得ない。本当に今の政府や国家なるものは、日本の国家なのだろうか。
肝心なことはアメリカや某メディア社長らが決めているので、やることがないのかもしれない。外務省は、外交の根本政策を立案することを自分の仕事とすることをとうに止めているようだし。自衛隊と米軍が直截話して、物事を決めてしまうのでは、外務省にはすることはないだろう。

日本は平和憲法をもち、一般の人は、銃も刀も持っていないから、日本のテロは心さびしい。が、それは起こっている。毎日のように、電車を止める人身事故と言う名の自爆テロ。自殺や家族殺人だってそうだ。日本に軍隊、徴兵制があり、普通の人間が武器の訓練を受けていて、銃や刀、爆弾が日常である社会だったなら、日本だってイラクと何の違いもない悲惨、悲劇を呈していたにちがいない。逆に言えば、イラク平和憲法を持っていたら、アメリカに占領されていたって、爆弾をつかった自爆テロではなく、飛び込み自殺で鉄道を止める、デパートの屋上から飛び降りて人を道連れにする、なんてことがじわじわと増えていったのかもしれないと想像することが可能だ。

日本に断固とした反米、反・売国国家の政治勢力があったら、抵抗の仕方はもっと違ったものになるに違いないのだ。それはイラクでも同じだ。