私はあなたの「不安」です

小さいときから、なにかおこるとパニックになることがよくあった。
覚えている一番最初のものは、地球が破裂すると親たちが話していて、世界の終わりかとパニックになった。それは結局、子宮を地球と聞き間違えしたのだったのだが。
小学校、中学校と、試験の直前はたいがいパニックだった。直前にならないと、テスト勉強はできなくて、前になってはじめなければならない時には間にあいそうもなくて、おかしくなった。おいつめられないとできないのだった。
今でもそういう傾向がある。僕の何がしかはそうした「不安」を核にしている。実際、不安に突き動かされて叫んだり訴えたり、勉強したりしているとき、僕は一生懸命なのだ。
 みこみができ、自分が楽になったり、豊かになったりしそうだと、張り切って頑張るのが人の普通というものだと思うが、僕はそうではなかった。さわぎまわって、人に迷惑かけている時、生きているという感覚があった。迷惑な人間だ。
 他の人たちが生きたい、生きようとしているのに、僕は死にたがっている。
 個性などというものはこれっぽっちももっていないが、僕を構成している主要なキャラクターは「不安の種」であるということを自覚したのはわりかた最近のことだ。

 それは没落する中間層の不安である。つまり、父親の不安である。

 ここで対人関係の本質論を展開する余裕はないが、僕は、父親の中にあった「不安」 の独立させられたものとして、生み出されたものだった。その結果として、父親は自分の不安を切り離すことができ、精神的に悩まないでいられることになった。

  私はあなたの病気です

というのは、僕自身のセリフなのだ。

個性を前提とする近代的人間観からするなら、自分が、他者の不安でしかないとする把握は理解不能かもしれない。だが、僕という存在を掘り下げていくと、その根本にたどりつかないわけにはいかない。