関係としての私    

加藤さんがあれをやらかして以後、実は僕は自分が少し元気になったことを感じている。
道義的にどうとか、どのように考えるべきかという次元のこととは別である。
事実として僕の体がそうだと言っているのだ。
似たようなことは過去にもあった。
9.11の事件を知って、めったに見ないテレビにかじりつきながら、
アメリカの絶対性という自分の中の前提が事実ではないのかもしれないと理会した時がそうだった。
その後、9.11には別の分析も現れたが、其のこと自体に変わりはない。
イラク戦争に反対しながらアメリカの侵略開始を防げなかった時、失望し、自分が熱心に書き込みしていた掲示板にもあまりかかなくなっていたあと、ネットで2チャンネルのネット右翼を果敢に攻撃して伝説となった ふくだゆういちさんを知った時もそうだった。
イラクも日本のようになったんだなと観じつつあった私の認識が否定され、アメリカに占領されたイラクで、イラク国民は決して負けておらず、彼らの戦いがアメリカのイラク支配を失敗におわらせつつあると悟った ときもそうだった。
それらのことがなければ、私は死んだ犬へ向かったままだろう。
だからはるかな地球の裏側のイラク国民を日本人として菅井は尊敬する。

革命が起こったら、鬱病がなおってしまった下っ端の革命家がいたそうである。
菅井のことではない。100年前のロシア革命の時のある男の話である。