小田和正の復活

 もとオフコース小田和正は完全復活したどころか、オフコース時代よりさらに前進しているようにみえる。
 それは多分、彼が二十代の時と同じ透き通った高音を今でも維持しているからだと思う。ビーチボーイズブライアン・ウィルソンが若い時にもっていた暖かいファルセットボイス を失ったのとは対照的である。美声を失ってのドラッグ漬けと、肥満からの奇跡の復活は、もちろん感動的で、むしろ今のアメリカにふさわしい美しさとは思うけれど。
 復活したかつてのミュージックシーンのヒーローたちはたくさんいるが、トータルにみて、若い日の傑作群を超えた人は決して多くない。過去のスタイルをなぞっている。それどころか、商業主義にまきこまれ、あるいは、それから距離をとるのに精一杯で、独自の奔流をつくりだすことからは遠い。よく聞いてみれば変質してしまったといえるほどだ。
 だが、小田が数年にわたって、深夜のテレビ番組でやってきたことは、いささか違っている。あるときは「題名のない音楽会」の黛敏郎(古いなぁ)のような語り口で、ある時は落語の古今亭しんしょう(これまた古いや)のように、自分の曲を、ゲストの曲を、ライブでまわった各地の現状のビデオを紹介する姿は、彼の曲がしっかりとしたテーマをもっているだけに、総合ショーとして楽しめる。とりわけ、オフコース時代ならけっしてしなかっただろう、観客席の中深くまで入って行って歌い、自分の歌の途中で、マイクをすぐそばの観客に向け、歌わせることは完全主義を捨てて聴衆の参加を促している。NHK「ふるさとの歌祭り」みたいだと思った。
何にいちばん近いかといわれれば、宗教団体の集会に近いかもしれない。
彼の愛の説教はある種の社会層に確実に届いている。

 十年前、オフコースを聞く人は、暗い、といわれて形見がせまかった。ネットには熱烈な支持者がいたものの、なにせご本人があまり活動していなかった。

 それが今のこの姿である。曲も、どちらかといえば昔よりポジティブになったと思う。だから、暗いとかはもう言われないだろう。だが、彼の高音の響きはまったく変わっていないし、サウンドも含め断絶はまったく感じない。今でもオフコースといって通るだろう。
 オフコースのもう一人の鈴木氏はどちらかというと、より男性っぽい歌をつくった。そして、社会を撃つ歌もつくった。それはオフコースのもうひとつの側面だった。

 だが、還暦ちかくで、ファルセットで歌い、神社の石段をかけのぼり、全国をジョギングをしてまわり、人起こしをしてまわっている小田和正の姿は、まさしくかつてのオフコース小田和正そのものである。
 今年のクリスマスの番組では、なくなったキャスター筑紫哲也との思い出にふれ、ゲストのカップル、松たか子佐橋佳幸を暖かく紹介した部分が印象に残った。そういえば、番組中で人の名前を挙げたのは、筑紫哲也と、自身がつよく影響を受けたという故・伊丹十三(記念館訪問シーンでの)だけだった。
 ラストは「さよならはいわない」のピアノ弾き語り。「さよなら」のアンサーソングか。小田にはけっこうアンサーソングがある。老いと死の予感を感じつつ、かつての輝くばかりに生きた日々をふりかえりつつも、仲間たちに、また会えなくとも、さようならはいわないと歌う。
 菅井には、筑紫哲也への追悼のようにも、オフコースの仲間たちへのラブソングのようにも、自身も死ぬまで走り続けるという決意のようにも聞こえた。