地を這う難破船「隠喩としてのガザ」

このブログの「隠喩としてのガザ」の、この文章に同感した。
菅井もそう感じて村上春樹の小説を読んできたんだ、と思った。スノッブというのはわからなかったけれど。むしろ、抽象的とか一般化と感じていたから。

http://d.hatena.ne.jp/sk-44/20090204/1233714565

《「んなわけない」ことを知っているとなぜ言いきれるか。村上春樹の文学は、まさに「自由と自律を剥奪された人々」を、現代文明社会を舞台にスノッブな意匠を用いて描いてきたからです。スノッブな意匠は、作家にとって必然でした。現代文明社会に生きることが「自由と自律を剥奪される」ことであることを、つまり私たちは曳かれ者であることを、作家は描いてきたからです。

だから作家がフランツ・カフカ賞の授与を光栄としたことは至極当然のことでした。それはまさにカフカが描いてきたことだからです。20世紀初頭の、チェコの抑圧されたユダヤ人がその特異な才能をもって描いたことです。

パレスチナを描かないことが、「自由と自律を剥奪された人々」を描かないことではない。それが村上春樹がアジアやロシアでも読まれるグローバルな世界文学であることの意味であり、同時に柄谷行人らが批判し『近代文学の終わり』と指摘した現象でもあります。場所の固有性に規定されるのが近代文学であるからです。

「自由と自律を剥奪された人々」を日本の現代文明を舞台に描いてパレスチナに触れないことが問題でありえるのは「近代文学」の問題設定です。自由と自律の剥奪を描くことは、特定の政治的に抑圧された人々を描くことではない。そのことが支持されたから――つまり自由と自律の剥奪を我が事として考える世界中の人々が支持したから――村上春樹はグローバルな世界文学たりえました。》



付記 2/6
次の言明と「スノッブ」問題とはつながっていると思う。
パレスチナで「自由と自律を剥奪された人々」は村上春樹なんか読まない。読む余裕はない」
正しくは、「スーザン・ソンタクはもちろん、村上春樹でさえも読まない、読む余裕はない」だろうと思う。日本で村上春樹は、文学や評論や文壇にまったく縁のなかったたくさんの人を惹き付けた。その人たちはライト・ノベルなんかには近いかもしれない。だが、それでも、そうなのである。

ある哲学雑誌につぎのような映画監督若松孝二のことばが引用されていた。
大島渚と自分〔若松孝二〕は国家権力とセックスというテーマは非常に重なっているんだけど、『俺と大島のちがいは、大島の映画はインテリしか観ないけど、俺の映画はバカとインテリの両方が観るんだ』」
これはピンク映画時代の30年前の若松監督のことで今のではないかもしれない。
ちなみに私は、そのころ若松映画しかオモシロくなかったから、バカの方だったのだ。


以下の最新ブログはおもしろい。
http://kizuki39.blog99.fc2.com/blog-entry-482.html
《わたしは知識人として人間としてエルサレム賞受賞をした村上春樹イスラエルを批難する(かあるいは賞を辞退するか)のが当然だとはどうしても思えない。理由はわからない。わたしはイスラエルをまともに批難してはいない。だとしたらわたしは人間としてひどく間違っているかもしれない。》
イスラエルをまともに非難している人と、批難していない人。わたしたちはどちらでありうるか。