アソシエーション理論への期待

田畑氏が提唱し、マルクス派の一部に評価されているアソシエーション理論なのですが、
菅井は、これのどこが新しいのか、実はよくわからないのです。文献的裏付けはともかく、菅井はもとからそういうように思っていたと思うからです。ただ、目的がそれであるとしても、現実の具体的分析の中からそれに向かう条件をみいだし、そだてなければならないので、旧来のレーニン派の政治革命の科学としてのマルクス主義は、まず国家権力を奪取しないと、それらの可能性を開花させることはできないという分析のもとでの具体的展開だったと思うのです。
たしかに、その迂回路は、諸アソシエーションの具体的な可能性を分析して育てるということから離れがちだったことは事実としても、その延長上にあったものであることはまちがいないのではないでしょうか。
わすれがちである大本に気付かせるということでは意味があるとしても、まったく新しい何かであるとは思えないのです。
もし、国家権力の奪取変更のやり方に一面性があったとか、国家権力をとりもどさなくとも、育ちつつ有る諸アソシエーションのいきおいはつよいので、なしくずしに変わる(この主張は従来修正主義とよばれていたと思います)とかいうのであれば、わかるのですが、根本がちがっていたということにはならないと思うのです。
もちろん、歴史内在的な理解が不十分であったことは、弁証法唯物論という用語についてとか、フォイエルバッハテーゼや共産党宣言成立過程についての最近の本を読むとよくわかります。
田畑さんの本を読んでいると、唯物論という用語にあまりこだわりすぎる必要はないかな、実在論と言えばよいかな、とも思ったりします。

菅井が学んでいたマルクス主義が森信成氏、山本晴義氏、横田三郎氏、岩崎允胤氏、かつての鷲田小弥太氏(いまのところ、現在の鷲田氏についてはhttp://www.eva.hi-ho.ne.jp/nishikawasan/ak/hasida1.htmのかたと同じ感想をもっています。)等、田畑氏に近い人々のものであったからなのかもしれませんが。

さて、アソシエーションを何か特定の現象(生協とかNGOとか)にたとえて、具体的方針をつくってしまうことをいましめる田畑氏に賛成なのですが、であれば、国家の分析とは別にアソシエーションの分析を具体的にしなければ、いかなる方針もでてこないと思うのです。

菅井は、それは萌芽なのですから、およそ、アソシエーションらしからぬジャンルからでてくる可能性もあるのではないかと思います。
現実の生協は、資本主義企業に浸透され、国家の統制も受けています。班会活動は空洞化、普通のスーパーみたいです。国家を超越する団体であるたてまえの自然発生的なNGOも、今の日本では、国家に認可された一機関のように見えます。労働組合は、国家の支配機構になってしまっているように見えます。
そういう中では、本来アソシエーションの実例とみなされるべきものから、あまりよい手本が得られないということはありそうです。

田畑さんには、ぜひ、アソシエーションの科学分析の枠組みとなるような、一理論を提出してもらいたいと思います。マルクスが、資本論でやり、レーニンが、帝国主義論や国家と革命でなそうとしたことを、アソシエーションという社会主義の根幹であるべき対象についてやってほしい。

菅井は、うまくやっている資本主義企業、日本でいえば、スタジオ・ジブリとか、でおこっていることは参考になるような気がちょっとしています。

もちろん、めぐまれた人々の中から出た社会主義や、実存主義の思想はそのままでは諸民に役立つものとはなりませんでした。グーグルやシリコンバレーの「先進的な」経験についても同断でしょうが、どこから理論枠組みを抽象すべきか、には関係してくると感じています。