生の瑕疵(かし)  欠陥、傷

集団asif〜 「生の瑕疵」という芝居を見た。そして、以下のようなことを考えた。


小さい頃に「親の愛」を充分に受けず、安定した自分というものをつくれなかった子どもたちは
空洞を抱え、主体となること、自分の欲望を持つことに失敗し、時折衝動的にそれを埋めてくれるように見える何ものかに向かって疾走するのだが、それはどこへも行かない。

諸民の多くがそういう子どもとしてこの地上を生きている。
その欠如を埋めるために、育ち直しをさせるという実践があるようだが、僕にはそれは違うような気がする。もちろん、育ち直しは必要なのだ。が、システムとして与えられるそれは、どこか無理があるし、ウソの匂いがする。全てが育て親の主体の模倣になってしまうとまでは、言わないが。

僕の場合、僕の存在本質は、父親の不安であったようだ。父親は自分のさまざまな要素のうち、支配階級の末端、または、下士官としての不安、不機嫌を僕に割り振った。それによって、彼自身は他の人に対しては、 明るく陽気で立派な人物としてふるまうことができた。欠如態としての僕の擬主体、それが父親の不安である。百パーセント、僕はそれ以外の何ものでもなかった。

それと、当たり前の主体であることとの間に横たわるものは遠くて、そして実は近い。あなたもまずもって、欠けている空洞を埋めようと疾走を繰り返すのではなく、自分は何であるのか、考察分析してみるべきだ。考察や分析とて、一人ではできない行為であるけれど。といって、精神分析医に頼めばよいのだ、と言いたいわけではない。もちろん、頼んだとて、何らわるいことでもない。

もちろん、実践はまた別の領域に属する。それはその次のことだ。