歩く生活

生活スタイルを切り替えている。
歩くことを中心にすえようとしている。
元気であるかぎり、一日おきくらいにかなり長距離を歩く。
毎日は、ちょっと消耗しすぎな感じがするので一日おきくらいが良い感じだ。その代わり、かなり歩く。


東京の貧乏人として生きようとしている。
菅井の貧乏人の定義は、お金がなくても(あっても)生き抜く である。
お金がなければ、食べられない時もある。
でも、他の地方に行くのでもなければ、時間はかかっても、歩けば移動はできる。
仕事がらみだと、複雑な移動があり、乗り物を使うしかないのがつらいが。


東京の貧乏人と書いたが、東京でも、貧乏人が主であるかどうかは確かめなければならないと思っている。
東京は、日本で生み出された富が集まるところである。その富は支配者のポケットに入り、また新たなもうけを産むために
投資され、あるいは、東京に忠実な下僕を維持するためにばらまかれている。
東京に存在する金になる仕事のかなりは、必要だから存在するのではない。ばらまくための口実の仕事だ。
ということは、東京人は、搾取者とその恩恵を被っている人々がかなりいるのである。
それがどの程度とみつもるべきか、調べなければならない。
それによって、東京の変革の展望はまったく異なってくる。


すでに日本国家は、国家消滅への道をたどっている。
第二次大戦後、その国家原理としてうちたてられた、平和主義、国民主権基本的人権の尊重は空文化ないしは打ち捨てられて
国家は、正当性を失ってしまっていたのだ。
その上、小泉内閣以降の、新自由主義で、国家は国民のためになにかをする機構ではなくなった。(アメリカのいうことを執行する下請け機関になった)
さらに、小泉以降については、国民のために政治的リーダーシップを発揮する総理大臣は皆無、実質的にも、国家って、なんの役に立つのだろうというくらい、何もしなくなった。民主党政権になって、一時転換のきざしもあったのだが、それも鳩山がやめるまで。何省、かに省という官僚機構も、既得権益で動くだけで、ばらばらである。今度の震災でも国家は実質何も動いていない。義援金も届けていない。避難もさせていない。警告をして、国民に備えさせもしなかった。ただ、大丈夫ですという以外には何もしていなかった。町や市はもっと動いた。国家にみきりをつけて、保坂展人は世田谷区長になった。


自民党にもどれば、国家はまともになると、思っている人もいるだろうが、東北大震災において、政府にさそわれたにもかかわらず、何の実質的な責任も引き受けようとしなかったありさまを見れば、(別にそのまま大連立にのっからなくてもいいが、自民党は動いていない)それは幻想である。


ガバナビリティは、もう一度諸民によって作り上げられる以外にはもはやないのだが、その前に、業を煮やしたアメリカは、すでに首相官邸アメリカ政府の人間を常置することを管内閣にのませてしまった。可能性としての諸民のガバナビリティをのぞけば、権力としてはアメリカ(米軍の駐留を背景としている)ばかりが見える日本である。原発事故対策だって、失敗した初期の対応をのぞけば、今はアメリカの実質指示で進んでいるのではないか。




日本の天皇制は、大衆化の時代に入ったと思った。かつては、この大震災のような国難には、天皇行幸が人々を感激させ勇気づけた。
今回、天皇は動かなかったわけではないが、それよりめだったのは、杉良太郎、コロッケ、石原プロ、などの有名タレントだ。彼らはテレビで人々によく知られた人気者で、被災地にでかけ、「○○さんが来てくれた」と喜ばれていた。私には、これは大衆化された天皇制のように思われる。普通の人が行ってもそのように喜ばれない。ささやかな感謝はあるだろうが。えらい人(?)がわざわざ来てくれたからうれしい、ありがたいのだ。管総理はどうやら、そうした諸民的な天皇の一人にはなれなかったようである。