あまきていげんを よんで

あまきなおとさんの ていげん が につかんげんだい に 二かいにわたって
のっていた。
いまこの時期に、まんをじして はっぴょうする のだから、 おおいに きたいした。
だが、ぶんしょうを よませていただいて、ざんねんながら きたいはずれだった。

いま、このじきに はっぴょうされるべき ことば はあるはずだが、
あまきしの これは、それに こたえるものとは とうてい いいがたい。


ことばに ちからが ない。
あるべきしゃかいに ついての びじょんは ま、わるいとはおもわない。今まででてきているものをちゃんと拾っている。しかし、それは いきて つながった ことばに なっていない。

だが、それを、スローガン(キーワードとかコンセプトとかいっている)と、佐藤前福島県知事とか孫正義とか、何人かの具体的な名前もあがったリーダーによって実現しようというのだ。そして、われわれ諸民へのよびかけとしては、エジプトにもできたから、われわれにもできる、という。


あまきさんには、諸みんの すがたは みえていないのだと おもう。


エリートかんりょうの さくぶん、よせあつめの世界 から でていないのだ。

たちまち、色褪せる 具体的な方策はいらない。お金のシステムに支配されているわれわれの心を、根本からゆさぶる、それから自立した言葉と方向を、はっきりと示すマニュフェストこそ、求められているものだ。

あまきさんは、そのひつようは かんじている人だろう。
だが、かれの言葉は それではなかった。