日本を変えるための唯物論

人間は、まだ、文明が発達する以前、
集団で狩りや採集労働をやっていた。
その労働を指揮するのは、リーダーの声であった。特定の人間の声に従うようになることは、人間たちが生きる上で重要なことだったのだ。
みなが、リーダーの声と、それ以外の声とをはっきり分けて、リーダーの指示にだけ従うようになること、これは、人間史のはやい時期に確立したあり方であった。


さて、そういうおとぎばなしをしたのは、
その後も人間にはそういう機能は残り、それがイデオロギー(虚偽意識、偏見の体系)を成立させたと考えるからである。
今では、人々の大半は、テレビの言葉に従うようになっている。テレビは、現代のリーダーなのである。人の話には、批判的に対処できる人が、メディアがいえば、無条件に信じる。そういうところがある。それは、人類がその最初期に確立した、集団として生きていくためのしくみによっているといえる。


テレビの権威が、正しい情報を流し、正しい問題提起をすることにむすびついているなら、問題はない。しかし、日本の事実はそれとは正反対である。一部の人間たちの支配を気づかせず、現状に従わせるだけになっている。典型はCMである。これらは、その商品についての必要な情報や、使い道を説明するというよりは、印象的な画面と、連呼によってそれを買わせることに力を注いでいる。電通などの大手情報支配産業がそれをつくりだしている。

原発のような危険な技術が、きちんとした判断もされずに国策としてずっと続いている背景には、原発安全イデオロギーがメディアを通じてばらまかれてきたからである。


さて、だから、問題は、「テレビにさようなら」ということになるのである。


だが、これは、地デジテレビを買わない、というようなことで、簡単に実現するものではない。テレビの権威は、人間の生活様式に根を持っているからである。


インターネットの発達は、ネットの中で、意識やコミュニケーションを完結することを可能にするようになり、一部の人々は、テレビの権威から、インターネットの情報の影響下に移行しつつある。だが、インターネットを無条件に信じることは危険である。


現に、日本の中だけでのネット発展の時期に発生した、ネトウヨという人々の言葉は、コピペと拡散を通して、支配した。今もその汚染は、福島の放射能汚染のように、浄化しきれない困難として、蔓延している。それは、音声から派生した書き言語、それも繰り返される活字言葉の力である。
音声と文字はもちろん、イデオロギーの支配という事実にとっては両方重要であるが、ここでは、音の根源ということを言うにとどめておく。
音楽などもまた、イデオロギーを支える大事なものだ。


イデオロギー支配の状況を変えていくためには、いままでに一つのセットとして実在したテレビなどのメディアシステムがどのように変わっていくか、をよく見ていかなければならないだろう。