菅総理の脱原発

菅総理が、脱原発を言い出して、おもいつきだとか、表面だけだとか、やめないためだとか
言われている。ポピュリズムの一種だという。


北海道の泊原発を稼働しようと、政府は必死だが、そして、これは再稼働ではなく、稼働のつづきだから、
チェックなしでよいという詭弁を使っているけれど、一度止まっている原発は動かさない、動いているものでも
危険な物から停止していく、という脱原発派の主張を事実で打ち破ってしまおうということであることは
明らかだ。北海道の文句で、とりあえず再稼働は延ばされたが、予断はゆるさない。


確かに、菅総理脱原発というのは、コトバだけのようだ。政府は再稼働の可能性を財界と一緒に狙っている。
そもそも、閣議で彼の脱原発方針について、議論したという話を聞かない。


で、その菅総理の退陣がいよいよ具体的に語られるようになった。脱原発など、「非現実的」だったといって、
次の内閣で簡単にひっくり返されてしまうのは目にみえている。


だが、菅総理の踏み込みの原因は、疑いもなく、全国に展開されている脱原発運動だろう。彼がどういうつながり、因果の連鎖を
通じて、このような意識になったかは、ともかく、ここには、諸民の一つの政治的動きの潮流とのつながりがある。
今までの明治維新来の政府にかけていたものは、諸民の運動とのつながりであった。彼らは、新しい支配層だったのであり、
民衆は、教化される対象であり、政治の主体ではなかったからである。普通の若者は何を言ってもやっても、政治は変わらない、と
いう日本にしみ込んだニヒリズムは、単に事実の反映だった。


だから、政治が、菅総理一人の意識という形であっても、諸民の行動と連携している様は、おおいに大切にしなければならないと思う。