諸民の団結について

孤立した個人への退行が、基本的な状況である。
諸民の連帯とは、課題なのだ。
連帯に対する懐疑派にはとりあえずそう答える。

だが、諸民は、共同で搾取を受けている。搾取とは、自然過程ではない。
力によるはぎとりである。攻撃を受けているのである。
その点では、一緒なのである。連帯以前、孤立していても、われわれは支配層に
すでにまとまりとして搾取されている。

連帯はたしかにまだあまり多くない。だが、事実としてはつながらせられている。
それは、同じ鎖で縛られている、というようなつながりであるにしても。

かつてのイギリス資本主義の分析からの労働貴族というのがどこまであてはまるか。
ある論者は、日本の一定程度の生活の条件は、第三世界を搾取しているからであって、
日本の労働者は、日本の資本家と共同利害をもっているのであり、搾取されている第三世界諸民とは敵対しているのだという。敵対とあからさまに言わなくとも、本当の貧乏人は自分の身を守るのにやっとで、連帯などとんでもない。エゴイズムにつかっているのだ。
こんな論旨をする人がいる。

だが、彼らは、賃労働者をイメージにおいておらず、ルンペンプロレタリアをイメージしているのだ。ルンプロ以外は搾取者だという偏見に陥っているのだ。そこから出てくることは、
大衆蔑視、不信である。多くの「ゆとりのある」賃労働者は、事実としては搾取しているからよゆうがあるのではない。生産力が高いから、それでもそういう生活ができるのである。民主主義が定着しているから、搾取される程度が少ないのである。

昔もそういう誤った理解はあり、左翼小児病とか極左日和見主義とよばれたものだ。

資本主義は労働組合の幹部をだきこんだかもしれない。労働者の一部をまちがったイデオロギーで自分たちのスポークスマンにしたてているかもしれない。だが、それは一部である。

アメリカ帝国主義は、独占の搾取が海外にも及んでいる。だが、それでも労働貴族化している者たちは存在するが、限られている。

最後にさまざまに利害の対立があり、イデオロギーに支配されており、孤立化されている人びとにはもちろん、団結するにたくさんの障害がある。それをのりこえる、あるいは調節するのは、運動である。逆ではない。