闇の中で

3.11を境に、日本人は真っ二つに分かれてしまった。それまでと同じように生きていけると思う人たちと、変わってしまった、もとへはもどれない、変革がどうしても必要だ、と思う人。これは原発事故が実質的に終息したと見る人と、今も続いていて止まらないと見ている人の差でもある。どちらが正しいのか、誰の目にも明らかになるのにはあと数年はかかるだろう。

金融恐慌はじわじわと悪化の度合いをもたらし、ブロック経済への移行があっというまに生じそう。第二次世界大戦前夜のようだ。まるで、新たな戦争前夜である。

日本にはでも、ちがうことがある。ないものが一つ、あるものが一つ。第二次世界大戦前の日本には希望の星、「満州」があった。そこが日本の生命線になった。だが、今の日本にはそれにあたるものはない。代わりに「原発事故」がある。これは、終息していない、たぶん。これを資本主義は管理することができないみたいだ。何の利潤も産まないが、しなければならない後始末の仕事があるが、それは資本主義ではできそうもない。資本は「放射能除染」という儲け仕事を創りだしてやっているが、それは、まっとうにやられているとは見えない。事故から20km以内で、役所だけ除染するなんて。除染というなら、住民をちゃんと避難させて、一部の地域を選んで除染の実験を費用を度外視して、いろいろやって将来に備える、という除染研究を始めることが必要なことなのに。

東電も儲かるような事故処理をしようとしている。足りない分は、國から、税金から出してもらう気でいる。

先が見えない。だが、日本は、原発事故に立ち向かうには、資本主義を越えないとできなくなっている。
資本主義と異なる生き方のはずの社会主義が地に落ち、ぼろぼろになっているというのに。労働者階級が歴史的使命を自覚しているなどとは到底言えない今だというのに。

状況は変革を求めている。しかし、主体はたちおくれている。見えない。

だが、主体の立ち遅れ、不在ということは、日本では明治以来ずっとそうだったのだ、ともいえる。ずっと課題だったのだ。