大阪新市長のファシズム的性格に対する警戒の声はあるが、
野田総理のファシズム体質に対する警戒の声はまだあがっていない。野田の政治基盤はきわめてもろいように言う論者が多いが、PTT参加の独断以降のこの人物を見ていると、この人物と政権についてのその評価は間違っているかもしれない。すでにもと官僚の有名評論家某氏が、野田の独断的決定を支持している。
支配層は、原発事故をきっかけに、日本の批判勢力を押しつぶし、管理社会を完成させようと全力をふるっているとみるべきである。産業、官僚、政治、マスコミ、裁判所も一体である。だから、そのみこしにのる方向で、野田が独断をすすめるならば、官僚はそれを支える。
PTTについで、原発事故は終息した、除染活動もうまくいっていることにしようと、全力をふるっている。第二段階終了なるたいそうな儀式はそれである。避難をもはやみとめない裁判所の決定もそれと呼応するものである。
諸民は、客観的条件もあって、原発廃止に向けて結束を示す流れもあったのだが、現在分散ぎみである。闘いのためには、大きく、エネルギーを結集していく必要があるのだが、PTT、消費税増税、従軍慰安婦問題、右翼左翼の確執、差別問題、派遣問題、労働運動など、さまざまな課題があらわれ、活動家の一部があれもこれもやるという形で、層がばらけているように見える。
そこに、野田の強引な「政治的」決断と官僚、裁判所、マスメディア一体の運動抑えこみと終息化がいっきにすすんでいるのだ。
何十年か前、学生活動家の間にはやった「消耗した」という言葉を想起する。そこにはまらないようしなければならない。