コミック「スパイラル〜推理の絆〜」

 『コミックガンガン』の連載マンガ「スパイラル〜推理の絆〜」、ここ数話を読んでいる。
20歳になると、叛逆者(テロリスト、凶悪犯罪者、と読め)になってしまうブレードチルドレンを、狩り殺す天才刑事・清隆が、自分のクローンの弟・歩を使って、自分を殺させることによって、自身のその冷酷な殺しの運命をリセットしようとする。そのためのコマと知らずに、次第にブレードチルドレンの味方になっていき、その覚醒と皆殺しの運命を変えようとする弟。だが、弟は兄のクローンであるがゆえに、20までしか生きることができない。
といった、きわめて現代的な設定である。
 ラストの、弟・歩が提唱する、運命を超えるロジックの当否と、歩によりそい、支持、支えつづけた結崎ひよのが、実は、兄のまわしもので、弟を兄に立ち向かわせ、最後にその事実を弟に伝えることで、最後のよりどころをうばい、弟を自暴自棄にしてしまう手段だったという、ショッキングな設定が、読者に失望をよんでいるようで、もう城平京(原作者)の作品は読まない、などと、ネットで書かれたりしている。
 もう六年も続いている作品の中心キャラクターが実は演技だったという設定は、夢落ち以上のそれまでの作品のイメージを損なうものだといわれたりしている。
 確かに、始めからの読者は、そうなのだろう。
 だが、ここ数話の終りのところしか見ていないボクにとっては、なかなか、運命を超えるロジックの話は興味深かった。若者の叛逆をもたらしているものは、日本社会そのものであり、小泉の構造改革という名の新自由主義、強い者だけが生き残る、はその牽引車である。
 それを乗り越えるものは、わたしたち賃労働者階級が、自らの存在本質に目覚めること、つまりは連帯と事実の直視だと、確信しているボクであるが、ここでは、たった一人の人間弟のロジック(それもあやふやな根拠の上にたつ)が、たった一人の人間兄を殺さないという行為の選択となって、何かを変えている。
 寺山修司に「盲人書簡」という作品があるが、その主人公、連帯の崩壊によって、悪夢のようになった世界に放り出された小林少年と、「スパイラル」の主人公、歩(弟)はある意味で置かれた立場が同じである。もし、宿命に翻弄されて、兄をそして(元)結崎ひよのを殺してしまっていたら、歩は、「盲人書簡」の小林少年のラストそのものだったろう。「盲人書簡」で宿命(歴史)を代表する黒蜥蜴の勝利と、何もかも自身の思い通りにあやつっていた兄、清隆の勝利は等価である。「盲人書簡」では、ラストで恋人マサコちゃんも、明智先生同様、狂気した小林少年に殺されてしまう。寺山修司は、そこに至ってしまうニヒリズムに解決を与えることができず、得意の中断という操作で話をストップする。だが、そのために、その構造自体は宙づりとなり、かえって永遠のものとして保存されることになる。
 だが、「スパイラル」の歩は兄を殺すことをとどまり、自分をだましていたひよのを殺すこともなく、つまりは、苦労してなんとかかんとか、宿命を超える道を見つけたようである。乱暴な言い方だが、だから、これは寺山修司の時代よりは進歩なのだ。彼がその作品を書いた1970年ころには不可能だった道が、35年後の今にはある、ということの証左なのだ。