ジジェク「迫り来る革命 レーニンを繰返す」

スラヴォイ・ジジェク「迫り来る革命」を読む。

終章にある以下の記述は、要を得ているなと、感心した。よく、肝に命じておかなければ、とも思った。

旧来のレーニン主義を単純に再生し、
労働者大衆の革命的衝動を裏切るダラ幹どもについて喋々(おしゃべり 菅井注)する
ことが可能であるかのように行動する、いまだ残存する正統派「レーニン主義者」たち
は、
その1 過去を熱狂的に語ることに夢中になるか、
あるいは
その2 (反共的「レーニン学者」がどのように、またどこで、レーニンを偽造したかなどを見事な博識をもって証明する)、誰にも脅威を与えることのない純粋に業界的なポーズ
に近づくことになるか
どちらかなのだ。

そうではなくて、「レーニンを反復する」こと。

レーニンを反復するとは、レーニンが実際に行った事と彼がその可能性を拓いた領域とを区別し、「レーニンにおけるレーニン自身を越え出るものとは何か」を問うことである。

というジジェクの言に同意。もっとも、これを始めたのはフランスの哲学者 故アルチュセールだったと思うが。

会心理的な命題ではないかと思うが

 〈能記(示されている中身ではなく、記号。 菅井注)としての「レーニン」〉のもつ意味

というジジェクの言い方は面白いと思う。現在の日本社会のイデオロギー布置連関における、「レーニン」という言葉の「占めている」(というよりは「占めようとして拒まれている」、差別=排除されている)ポジション自体のもっている可能性 と言い換えてみたいと思う。

それをきちんと分析して示す手腕をこそ、求めたいと思うのは、他力本願だろうか。