日本の伝統ということ

 日本の伝統ということ

 新自由主義新保守主義=新国家主義が、アメリカと手を組んで民族主義の地盤を離れてしまった今では、反小泉の陣営の側に、愛国主義民族主義的な潮流が生まれることは必定である。新保守主義天皇のみは尊重しているようだが、天皇を自分たちらしい生活スタイルの具体的なシンボルとして常にとらえてきた諸民が支持してきた側面とは全くちがう抽象的な国権主義のシンボルとしてしか見ることができない。そういう点では、天皇制は、生まれ変わる力を持っていたがゆえに生き延びた。昭和天皇がそれまで延々と続いていた大奥制度を排して、一夫一婦制の家庭をつくらなかったなら、大正で天皇制は終っていただろう。(大正天皇の奇行のうわさと結びついた大正期の天皇制の権威没落は語り草である。共産党天皇制廃止を強く打ち出したことは、社会意識的にも理解できることだった)さらに、太平洋アジア戦争に敗北したのち、人間宣言をし、皇太子妃を貴族大名以外の民間から初めてめとり、長年の伝統に逆らって、家臣に預けるのではなく、子供を皇太子夫妻みずからが育てることにすることがなければ、天皇家が日本の幸せな家族の象徴として、親しまれることもなかっただろう。そして、こたびは、都庁のサラリーマンと結ばれる紀宮が、宮崎アニメの大傑作「ルパン三世カリ城」のクラリスにあこがれてのウェディング衣裳を身にまとっての結婚式をしたという一点は、全日本のオタクたちの心をうばったのである。
 かく、日本の皇室はしたたかに強いのだが、それは伝統を墨守してきたからではない。その反対である。
 だから、大奥制度を廃した結果として、当然予想された世継ぎ不足の生じている今、女性天皇を実現しようというのも、むしろ、天皇制の「伝統」に則したものと言えるかもしれない。ただ、本人のやりたいかどうかの意志が第一に尊重されるという、もう一つの現代日本人の生活スタイルの原則を尊重することの方が、もっとふさわしいのではないかという疑念は残るが。
 したがって、新自由主義が尊重している日本の伝統、精神は実は一つもないのである。

 こうした中で、日本の本当の伝統を尊重しようという意見が出てくるのは自然なのである。が、この「伝統」という言葉自体が、ヨーロッパの遺伝学経由のものである可能性は相当に高い。日本精神、民族性ということを主張するにはよくよく気をつけることだ。

 新自由主義が見捨てたからといって、かつての保守の使ってきた貴族的日本精神論を拾ってきてはならない。それ自体が、随分と現実離れしているからだ。
 かくいう菅井も、日本の文化の特徴として、平和主義があり、それは、400年前、戦国時代の戦乱にこりた日本人が生み出したものであって、150年前の薩長政権の富国強兵政策と、それが現実化した侵略戦争の50年が、異常だったのだという考えを強めつつあるのだけれど、その語り方には気をつけなければならない、と思うようになっている。
 事実としての日本の文化にさおさして、日本の進路をきりひらいていくことは必要である。だが、そのためには、個人の好みや思い込みで日本文化を判断しないことが必要である。われわれが自分たちの考えと思っていることが、ラフカディオ・ハーンその他、西欧から来た外国人たちの考えのなぞりであるかもしれない、ということは有りうることなのである。