靖国神社にまつるということ

 靖国神社への小泉首相の参拝が中国朝鮮の怒りをかっている。
 日本国内でも、賛成論、反対論がある。
 だが、靖国神社にまつられているということはどういうことなのかがあいまいにされたままなのが問題だと思う。まるで、死んだ人の墓参りにいくことの善し悪しが論じられているような気がする。だが、靖国神社にはただ一片の骨も埋まってはいないのである。靖国神社は「無名兵士の墓」とはちがう。靖国にまつられている人にはもちろん別にちゃんと自分の墓がある。ちなみに、比べられることの多い千鳥ケ淵は墓地でもある。戦地を訪ねて、戦死した名前知れずの兵士の収集されてきた遺骨がおさめられている。
 だから靖国神社にいくのは墓参りとはちがう。個人をしのびにいくのではない。死者をなぐさめにいくのでもない。
 靖国神社にまつられたのは、霊(英霊)である。霊だといってわかりがわるければ、神である。
神社にまつられれば、人は神になる。本殿に入るのであって、裡の墓地に碑が建てられているというのとは訳が違う。豊国神社にまつられた豊臣秀吉も、東照宮にまつられた徳川家康も、明治神宮にまつられた明治天皇も神になった。神田明神には平将門がいる。自殺したので靖国にまつられていない乃木将軍は乃木神社の神様に祀られている。
 どこかで、靖国神社にまつられた霊はどこにいるのか、という議論を聞いた。答えは、成仏してあの世に行っているのではなく、この世にとどまって、神(英霊)として国を守っているのだそうだ。
 仇(あだ)を討ち還(かえ )らずば
  死して護国の鬼と 
ならん、とは、「元寇」の歌詞であるが、靖国神社に祀られるとは、「護国の鬼(=神)」になることなのである。
 神様である以上、一度祭神にした神様を、A級戦犯など一部まちがえましたから、削りますということはできない。一度神にしたものを人間にもどす仕組みは「神道という宗教」にはないようである。「神道における合祀祭(その神社の祭神に加える儀式)はもっとも重儀な神事であり、一旦お祀り申し上げた個々の神霊の全神格をお遷しすることはありえません。」が靖国神社の見解である。埋葬してあるお墓なら、骨をとりだして、儀式をして別のお寺に移すこともできる。が、そうではないのである。
 靖國神社にまいり、参拝するとき、何を祈るであろうか。諸民はもちろんいろんな思いで出かけている。
 だが、神様に効能があるように、靖国の祭神となっている霊にも霊験が決まっている。それは、「国家を守ること」である。
 要するに、参拝する人は、「国」を、われわれ子孫を守ってください、と祈願するのである。だが、その「国」というのが問題である。

 靖国神社ホームページによると、
靖国神社御祭神戦役・事変別柱数■
明治維新 7,751
西南戦争 6,971
日清戦争 13,619
台湾征討 1,130
北清事変 1,256
日露戦争 88,429
第一次世界大戦 4,850
済南事変 185
満洲事変 17,176 
支那事変 191,250
大東亜戦争 2,133,915
合計2,466,532
(平成16年10月17日現在)

 ただ、以下のことは明示されていない。
 祀られている人々が、薩長政府の側にいて戦って死んだ人だけであり、幕府側の戦死者はまつられていないし、明治維新の功労者、西郷隆盛も、西南の役でさからったからというので、祀られていない。戦災でなくなった市民はまつられていない。大日本帝国のために戦場で死んだ兵士軍属のみなのだ。
 死してもなお、英霊となって守ってもらいたい「国」とは薩長政府とその延長、大日本帝国のことなのである。
 もちろん、戦後の改革期に、靖国神社自身がそうしたありかたから脱皮しようとした動きもあったようだ。が、それは実らなかったし、靖国神社が戦場で死んだ兵士を人間にもどし、生き残った者が平和を誓い、死者の霊に安らかに眠っていただくところになることはなかったのである。

 だから、小泉売国首相の靖国神社参拝は「戦没者の慰霊・追悼、平和の祈念」という発言は、まったくの偽りである。諸民の中に靖国にいくときそういう気持ちでいく人がいるとしても、一国の総理は他国の代表に対して、きちんと本当の意義を語らねばならない。
 愛国右翼を称する人々のほとんどが、小泉の「戦没者の慰霊・追悼、平和の祈念」の欺瞞を怒らず、朝中の立場からは当然でてくる批判にしか文句を言わないのは、転倒である。

 なお、以下のページには、立場はそれぞれ違うものの、靖国神社の性格については筆者と同趣旨の理解がのべられている。


http://www13.plala.or.jp/bae/mitsuhashi.html
http://homepage3.nifty.com/globaleye/starthp/subpage15.html
また、バルバロイで交されている議論も大変ためになった。

 筆者の靖国神社についての見解は、現在一つの神道神社として民営されていることを認め、政府は政教分離憲法原則にしたがうことである。一神社の見解を政府見解としないことを明言することである。