言葉というシステム

 言葉は一通りでない。人間交流の中で発生する言葉、独言として発生する言葉、労働の統制の中で発生する言葉、そして、暴力の直接延長である言葉、さまざまである。
 この世に生を受けた人間が、言葉を身につけるとき、始めにどのタイプの言語として発生するかということは、大きくその人の一生を通じての言語活動を左右する。一種類の言語しか十分に使えない人も多い。複数をうまく切り替えて使いこなすみごとな人もいるけれど。
 独言タイプの言語使いは、いじめの対象になりやすいというのが、現実だ。いじめ自体は、だれでもいいが、特定の一者を排除し、その者をたたくことによって、自分たち(複数=「みんな」))の安心をみたすシステムであり、今の日本資本主義社会にビルトインされているものだ。
 何か変っていると、みなされた者がいじめの対象として一度選ばれると、その人間が悪いからそう扱われるのだという意識となり、いじめであることは隠ぺいされる。
 だが、そもそも独言タイプの言語の機能は、発話者の主体を形成する(自分に語りかけ物語る)ことであって、他者にたいするコミュニケーションは二義的な機能しかもたない。コミュニケーションタイプの言語しか知らない者が、その基準ではかればおかしいことがあるのはあたりまえなのである。
 いじめられた者がいじめと戦うようになっていればよいが、今の日本資本主義は、いじめられた者がもっと弱い者にそれを転嫁する社会となっている。それどころか、本人の心の中では、いじめや、日本資本主義と戦うのだと、尋常ならない決意で事を起こしたら、子供や少年少女というより弱いものを傷つけることになっていたということさえあるようだ。昨今の事件がすべてそうだなどというつもりは毛頭ないが、若い、孤立した殺人者(容疑者)の成育歴を見ているとそういうことを感じる。