みそか(太陽暦)の夜を過ごす

ボクはテレビを持たないので、FMラジオを聞きながら、果物を食べみそかの夜を過ごす。
沖縄の戦争体験などを土地の言葉で録音保存しているものの紹介のようだ。御年寄りの沖縄語をシャワーをあびるように聞いたのは初めてだ。ボクには時々単語がわかる以外わからないが、聞き入っていた。

魔界転生」などで知られる作家・山田風太郎の日記を三国連太郎が朗読していた。
 山田の戦中からの変化(不変化)が時系列にたどられていた。三国連太郎のまとめとは、違って、山田風太郎は、皇国主義者として敗戦で深く傷つき、遂にそれから回復しえなかったという感じを持った。あるいは、14歳での母との死別の傷から。その目は、個々の鋭い予見を伴って、一見傍観者のようだが、帝国主義者の目と、ボクには感じられる。あるいは、帝国主義者を先取りしている目と。
 ボクは読まずに誤解していたあることに気がつかされた。ボクは山田は戦争中から戦争に批判的であったと思っていた。「戦中派不戦日記」という戦時中の日記をまとめた本を出していたからである。だが、それは実は「戦中派反戦日記」ないしは、「戦中派非戦日記」ではなく、ただ、ボクの父と同じ病気であり、医学部に入ったため戦争にいくことを免除され、医学生として軍医となるべく勉強していた。自分は戦地で戦わなかった=「不戦」、ということだったのである。山田自身は皇国の軍国青年であったのだ。
 山田が、目黒で東京大空襲にあい、「あいつら、こんなことまでするのか」とアメリカに復讐を誓うところ、原爆がおとされたことを知ってもなお、大和魂のような感じで、あと三年がんばればなんとかなる、というようなことを書いていること、8月15日の敗戦発表の日の日記だけが空白で、その日は終日友人と決起すべきか話していたなど・・・。
 戦後も、「アラブが石油を管理して、西欧諸国がそれに対して軍隊を出したら、日本はどうするか、行かなければ石油の分け前はもらえまい。どうするべきか」と書いていた。それは、イラク侵略を予見した鋭い預言者だというように、番組は述べていたが、そうではない、こういう物の見方こそ、侵略主義者、帝国主義者のものなのである。彼は帝国主義者の物の見方を先取りしていたということなのだ。
 三国連太郎のような感じで、山田風太郎を評価している人は平和主義者にも多くいるが、それは正しくない。
 傍観者と帝国主義者とは、実は、近いのだ。