初嗤(わら)い

             初嗤(わら)い


正月、読売新聞のサイトで、暮れの30日付け読売新聞の朝刊・「編集手帳」欄が、寺山修司について、

《言葉の衰えが折に触れてささやかれた年も去りゆく。生誕の節目(引用者注・2005年は、寺山修司が生まれて70年になる)に故人をしのぶさまざまな催しが営まれたのは、練り、たくらみ、研ぎ澄ました一語一語が現代人の胸にひときわ強く響くからだろう◆亡くなる3か月前、絶筆の「墓場まで何マイル?」を週刊読売に寄せた。近づきつつある死を語り、墓は要らないと書いた。「私の墓は、私の言葉があれば、充分」と。言葉の墓に詣でる人はいまも絶えない。》

とふやけたことを書いているのを見て、嗤った。

これを書いた人物は知らないのだ、
今の2チャンネル・ネット右翼が全く知らされていない、太平洋アジア戦争後の平和日本でも実在した真の《天下分け目の関ヶ原》の戦い、「1960年・日米安保条約反対闘争(略称・「60年安保」)」のことを、寺山修司が後年こうふり返っていることを。

「私はこうした激動の渦中にあって、デモには一度も加わらず、テロリストを主人公とした戯曲を発表し、指導者が戦略も方法ももたない反体制の運動は、大衆をいら立たせるだけだといいつづけた」

この読売子は、やがて、無知による恥を後世にさらしたことを後悔することになるだろう。

ちなみに、この時、ネット右翼が多分好きな現東京都知事老害石原慎太郎は、「革命」勢力の側にいた。