まだ松の内だというのに、気持ちは正月から遠い心持ちだ。普段の生活がもどってきたから、と思おうとしても、そうではないことはわかっている。
 今日の日記は休もうかと、どうせ、もともとはたまにしか書いてなかったじゃないか、と思ったのだが、どうせなら、今日は思いっきり後向きになってやれ、と思い、心に浮かんでしまった昔のことを書いてみよう。

 中にはボクの事を左翼とか、共産主義者と呼んでくれる人もいるかもしれないが、社会主義の思想とボクが出会ったのは、かなり大きくなってからである。
 初めて「共産」の言葉を聞いたのは、小学生の時、夜、父と一緒に入った風呂の中で聞いたラジオの選挙速報。「共産党議席獲得!」なんだか、不思議な感じがしたことを覚えている。なんだか、今までにないものがでてきたような。
 それはそれっきりで、ボクは中学生までは、真面目な非政治的少年だった。先生たちは、戦後民主主義の洗礼を受けた人たちが大半で、右翼に蛇蝎のごとく嫌われている日教組の先生もいた。
だが、ボクの学校の日教組の先生たちは、幸福なことに、生徒の自主性を尊重してくれた。ボクが中三の時、たしか明治百年記念式典というのがあって、自治会のメンバーに選ばれていたボクにも、都が主催する祝賀儀式に招待状が来た。明治維新はよいものだ、と素朴に思っていた当時のボクは、学校の代表として、当然行かねばならぬと思い、行きます、という意志表示をした。先生方は困ったようだ。明治百年は、戦後民主主義25年とかを祝うのに対抗して出されたものだったから。遠回しに、いろいろとしばらく、ボクに平和の話を含めて話をした。行かないでほしい、という気持ちだったのだろうが、行くな、とはいわなかった。
 ボクは大きな体育館のようなところでとり行われたその儀式に、後に行った佐野元春のコンサートの一番安い券の席のような高いところの席にすわって参加した。お土産にもらった記念の豪華本などをもって、先生のところに報告に行ったら、その本は自分で持っていなさい、と言われた。
 また、修学旅行の時、余興をみながやることになり、ボクは仲のよかった三人と歌を歌うことになった。制服自由化ののちも、制服を着ていたボクら三人は、そのまま、制帽・制服で軍歌を歌った。そろってこぶしをにぎり腕をふって。「戦友」という歌だ。


    ここはお国を何百里 離れて遠き満州
   赤い夕日に照らされて 友は野末の石の下


 余興はつつがなく終り、ボクらも無事にこなせたことに満足していたら、隣りのクラスの担任で学年主任の、ボクらが技術家庭科を習っていた○○先生からいきなり呼び出しを受けた。そしてしばらくの間お説教を受けた。ま、制服を軍服にみたてて(今の若者は着ないからわからないかもしれないが、もともと類似なのだからそうなる。)直立不動、そろって軍歌を歌ったのでは、平和憲法の精神が少しもわかっていなかったのか、と先生が驚愕して、諭してやろうと思ったのもムリはない。「先生は残念だよ。菅井にはそういうことは分かってると思ってたのに」戦争と平和の話をも含めてしばらく、いろんなことを聞いた。だが、ボクには何で、先生がそんなにショックを受けて、いろいろ長く話をするのか、さっぱり理解できなかった。ただ、先生たちにとって、これは大切なことなのだな、と思ったのみである。
 この軍歌、「戦友」は、父が好きな歌で、風呂の中でよく歌っていた。ボクも実は愛唱歌だったのだ。そして、そののち、いろいろな事を知って、人前でも自分でも、歌うのを禁じた。大人になると、人間には理性と感性が矛盾することはけっこうあると分かるようになる。この歌を久し振りに思い出した。



     ここはお国を何百里 離れて遠き満州
     赤い夕日に照らされて 友は野末の石の下


     思えばかなし昨日まで 真先駈けて突進し
     敵を散々懲らしたる 勇士はここに眠れるか


     ああ戦の最中に 隣りに居ったこの友の
     俄かにはたと倒れしを 我はおもわず駆け寄って


     軍律きびしい中なれど これが見捨てて置かりょうか
     「しっかりせよ」と抱き起し 仮繃帯も弾丸の中


     折から起る突貫に 友はようよう顔あげて
    「お国の為だかまわずに 後れてくれな」と目に涙


     あとに心は残れども 残しちゃならぬこの体
    「それじゃ行くよ」と別れたが 永の別れとなったのか


     戦すんで日が暮れて さがしにもどる心では
     どうぞ生きて居てくれよ ものなど言えと願うたに



     空しく冷えて魂は くにへ帰ったポケットに
     時計ばかりがコチコチと 動いて居るも情なや
 
         (以下略)




 高校生になって、共産党系の民青にも、新左翼にも、理論左翼にも、「市民」にも、ニヒリストにも、右翼にも保守にも出会うことになる。だが、高校時代は、精神年齢はかなり幼いのから、老成したのまで、開きが大きく、立場の違いというよりは、個性の違いのような気味があった。そこで、ボクは○○という、新左翼系の一匹狼に強く影響を受けた。ボクの学年で卒業しなかったのは、その○○、ただ一人である。ボクらのクラスの大半は、○○を卒業させず放置した学校の措置に、卒業式で名前を呼ばれても立たなかった。

 思想としての社会主義の中味を知り、「資本論」などを読むのは、大学に入ってからのことだし、その土台を為す肝心かなめの《唯物論哲学》に理会するのは、さらにもっとずっと後になってのことである。