「平和主義」について 承前

   「平和主義」について 承前


日本の文化度は高い、ということのきのうのつづきです。
きのうは、増田俊男さんのあげている例を紹介したが、ボクはこんなことを考えてみる。

日本の過去の政権交代の悲惨さのことだ。

鎌倉幕府ができたとき、それまでの平家はほろんでしまった。また、勝利者の源氏も、義経とか、範頼とか、兄弟どおしで争って、ついには、三代で亡んでしまった。

鎌倉時代から建武の新政をへて、室町幕府になるとき、もちろん、鎌倉幕府の北条氏はほろぼされた。南北朝の内戦もおこった。勝利者足利尊氏も、弟と争いをしたりして、幸せとはいえなかった。

そして、応仁の乱を経て戦国時代へ。日本国中、戦争の世の中になる。戦争での焼き打ち、略奪、虐殺、奴隷狩りは戦争につきものの、日常的経済的行為となった。敗者はここでも、通例討ち滅ぼされる。戦争があってかろうじて生きていける雑兵の群れの出現。負けた大名側の農民は、しばしば、殺され、奴隷に売られてしまう。南蛮船がきてからは、海外にまで。下克上の時代は、身分を越えてなりあがれる時代ではあるが、悲惨を悲惨とも思わないほどそれがあたりまえな悲惨な戦乱の時代。それはどこまでもエスカレートしていく。

だが、織田信長が天下をとるあたりから、状況が変りはじめる。滅ぼされた足利15代将軍は、殺されないで追放される。どこかの大名のもとにやしなわれて寿命をまっとうする。織田信長は自分が天下統一を完了したときのことを念頭において強権によって平和社会への転換を準備する。

志半ばで倒れた信長のあとを継いだ豊臣秀吉は、ひきつづき、平和社会への転換政策を勧める。民生の安定をめざし、支配の安泰をめざす。太閤検地、刀狩り。この刀狩り、実は、武器を諸民からすっかり取り上げたというのではないのだが、とにかく、武器を使用するのをおさえることだ。さらに、戦乱が終ったとき、戦争でしか生きられない沢山の武士、雑兵をどうするか、ということが問題になる。今でいえば、軍隊を縮小して、軍人や、傭兵企業の社員をどのようにすればいいか。それは実は全然簡単なことではないのだ。結論から言うと、朝鮮出兵であり、東南アジアへの雑兵輸出であった。朝鮮侵略をそのような視点で見るのは、もちろん一面的なのだが、国内の戦争したいエネルギーをそこで発散させたという面もあるということだ。戦争でしか生きられない人々は、結局戦争させるしかなかったのかもしれない。かなりの数の人がそこで死んだ。残った人は浪人となる。

秀吉の死後、天下統一した徳川家康も基本的にその路線を継承する。大阪冬の陣、夏の陣で多くの浪人たちはまだ、おれたちの出番があったとばかりに、戦さにおもむき、死ぬ。天草・島原の゜乱も、宗教の側面だけでなく、戦争でしか生きられない人間、牢人がそこに集結したという面はある。そして全滅。その後、武断政治文治政治へ。浪人最後の叛乱、由井正雪の乱、をもって、戦国時代に蓄積された、戦争せずにはおれないエネルギーは、ほぼ終息したといってよい。

 そして、元和偃武。平和社会日本の成立である。お江戸の中で、かつての雑兵たちの戦争へのエネルギーは傾奇者(かぶきもの)や町奴や、ヤクザものへと、形を変えていく。朝鮮との和解もなって、使節がやってくるようになる。明が清にほろぼされたとき、日本に応援軍の派遣が要請されるが、徳川幕府はそれをことわる。長崎に受け入れ先をしぼっての制御された国際貿易や外交(いわゆる鎖国)も含めて、平和の時代がやってくる。平和の時代は、単に戦争をしない時代というにとどまらず、戦争が必要ない社会、戦争ができない社会でもあった。増田さんの言う「文化度の高い国・日本」はこうしてでき上がったのである。決して、天皇制があったから、そうなったということではないのである。

 幕末、江戸幕府坂本龍馬土佐藩グルーブの献策で、大政を朝廷に奉還(大政奉還)し、王政復古の大号令で、列藩会議への平和的政権移行が成ったはずなのであるが、坂本龍馬の暗殺、さらには薩長は、倒幕の密勅なるものを強引に出させ、徳川に闘わなければならないように仕組み、ついには内戦を起こして、官軍を名乗って政権を奪取してしまう。関ヶ原の闘いのうらみはここにはらされたことになる。
 薩長明治維新政府は、吉田松陰らの思想にもとづき、富国強兵なる軍備拡大による大国志向路線を立国の方針として立て、朝鮮、中国を日本の生命線として侵略、平和主義社会である日本を、無理に戦争に駆り立て、狂気の一時代を招き、大東亜戦争でついには、日本をその滅亡寸前にまで導いてしまうのだが、それはそれとして、この江戸幕府から薩長明治維新政府への交代だとて、それ以前の政権交代に比べて、はるかに平和的なものであった。
 江戸城は平和開城である。首都・江戸における戦闘は、上野であったものくらいである。旧政権の長、徳川慶喜は、処刑も目立った処罰もされず、蟄居することができた。のちには名誉回復さえしている。東北、北海道での戦闘はあり、それなりに悲惨であったが、その規模から言えば、日本中が内戦にまきこまれてしまったなどというのからは、はるかに遠い。騒乱状態になったなどということもない。全体としてみれば、平和移行に極めて近いのである。
 第二次世界大戦の敗北の後の連合国の占領、これも、国家交代並みの大変化であったが、イラクのように、戦乱状態になることもなかった。蜂起を考えた人はいたのであるけれども、天皇終戦宣言のラジオ放送の力もあったが、闘いらしい闘いもなしで米軍の占領は進んだ。
 こうしたことこそ、増田さんのいう、日本の「文化度の高さ」、つまり、日本が「平和社会」であることを示すものである。

 外国をみてみれば、たとえば、フランス革命における王政から共和制への移行においては、はげしい内戦がおこっている。旧政権の首長、ルイ16世とその王妃マリー・アントワネットは、議会での決定により、処刑されてしまう。外国の干渉もその原因の一つではあったが。この内戦は、フランス革命に恐怖政治がおこった理由である。
 ロシア革命でも、同様な内戦となった。中国革命でも、そうである。
 アメリカでも、はげしい内戦(南北戦争)があった。 
 最近では、アフリカの国々で、内戦状態のところが多々ある

 もちろん、国際社会においても、第一次世界大戦の悲惨な体験から、戦争をなくす努力ははじまっていて、交戦権が国家固有の権利であるなどという考えは時代遅れになりつつあり、そういう意味では、日本国憲法のようなものは、普通の国のもつべきものとなりつつある。世界的に見ても、政権の平和移行は、しばしば見られるようになっている。
 
 だが、日本はその体質として、戦争に不向きだという特質、西欧諸国に先駆けて、平和社会をつくり守ってきた伝統があるのである。その平和主義立国策を正しく確立するならば。国際社会に名誉ある位置を占められることは、確実なのである。

(常態で戦争のできる国がたとえばアメリカであり、狂気にでもならなければ戦争などできないのが日本のお国柄である。)

 とまあ、こんなお話です。平和日本の軍国主義は一時のものだったのです。でも、そこで作られてしまった戦争したいエネルギーは、何らかのかたちで発散、鎮静されきってはいないのかもしれません。そういう意味ではボクらの平和への祈りはまだまだ足りないのだと思うのです。平和紀元60年を越えるにあたってこんなことを考えています。