尊王攘夷

尊王攘夷

 尊王攘夷という言葉は、日本でつくられたものではない。中国の言葉である。春秋時代、周の王朝が衰退し、有力諸侯が合い争うようになるのだが、その時、諸侯たちが掲げたスローガンが「尊王攘夷」であった。
 周王の権威をうやまい、外国の野蛮人を撃ち平らげて、王の代りに天下を統一する、そういうことだった。なお、「尊王」であって、「尊皇」ではない。中国に「皇」、つまり皇帝が出現するのは、さらに千年あまり下った秦になってからである。秦の始皇帝は、文字通り、最初の皇帝だったのだ。この秦や、春秋時代のあとにやって来る下克上の戦国時代の強国楚は、いずれもたいらげられるべき「夷」国であった。日本ももちろん、後漢書東夷伝にその姿をのこす、れっきとした東夷であった。
 周王を天皇に、楚や秦をヨーロッパにおきかえれば、日本江戸時代の「尊皇攘夷」思想になる。尊皇攘夷を実行する主体は、資格のある国ならどこでもいいわけで、江戸時代はじめの水戸学では、徳川幕府がそうと前提されていたし、やがては幕末雄藩がそうなろうとし、最後には、薩長明治維新政府自体がそれになる。玉のとりあいである。
 外国の開国要求に直面して、国とは、会津、長州、薩摩といった各藩のことを意味していたのが、日本全体のことを意味するような意識の変革が生じた時、志士たちが、日本を人々の具体的な連合として自覚することはなく、天皇の支配する国としてその国体をありがたく感じてしまったことには、そうしたシンボルでしか国民国家を自覚出来なかったという説明ももちろんあるのだが、基本的には、山崎闇斎らによって準備され、水戸学によって完成された尊皇攘夷思想に原因がある。「攘夷」をせまくとって、開国せず、鎖国をつづけるために、武力行使するという主張と普通見なされているが、それは正しくない。攘夷は開国の反対語ではない。
 日本中華思想の根本にある排外主義を表現する言葉なのだ。日本こそが神国であり、世界で一番優れた国であり、中国、朝鮮を含めて外国は、(ヨーロッパも、と口には出せないが、思っているわけだが)「夷」国、つまり、自分たちより一段低い野蛮国とみなす思想、それが「攘夷思想」なのである。(その思想に感染していない、幕府の公文書では、慎重に「異国」「外国」という用語が使用されていた。)
 なぜ、長年中国を先輩として尊敬し、文化を学んできた日本が、中国を日本よりだめな国とみて、世界の中心は日本に移ったと考え、中国の概念である尊王攘夷を日本にあてはめたのだろうか。それをつくりあげたのが水戸学なのである。では、なぜ水戸黄門(水戸学の組織者は光圀である)は、中国より日本が世界の中心と考えるに至ったか。具体的には、当時起こった出来事、北方の「野蛮」民族、満州族による明の滅亡という事態がある。明から亡命してきた学者とはなしながら、革命の行われる中国よりも、万世一系天皇がずっと統治する日本の方が上としたのである。水戸黄門は、家康を神(東照神君)として幕府の権威を絶対のものにするという、家康や家光の路線を否定していたのである。
 これは、「大東亜戦争」を指導した皇国史観の骨格そのものである。そして、現在のネット右翼諸氏の発言のひな形でもある。この水戸学が吉田松陰らの幕末志士に強い影響を与えた。吉田学校の生徒たちは、維新の元勲になって、そのとおりの排外主義を実行し、台湾朝鮮を吸収し、満州国というかいらい半国家をつくった(五族協和といいながら、満州国籍の日本民族はただの一人もいなかったのだ)
 この水戸学がもしなかったら、幕末の変革思想は尊皇攘夷にこりかたまることはなかっただろう。坂本龍馬も、高杉晋作も、もっとムリのない形で自分たちの思想、理想を表現できたかもしれないのだ。
 尊王攘夷思想が政治思想であるまえに、一個の狂信主義であったことは、仏教寺院の弾圧がそれがはびこったところでは、吹き荒れたことをみてもわかる。それは江戸時代から行われたのである。
 明治政府は、攘夷を言っていたのに開国に方針転換したとよくいわれるが、それは事実とはほど遠い。吉田松陰でさえ、結ばれた和親条約を破約するのではなく、富国強兵、アジア侵略を行って欧米に対抗せよ、といっていたし、薩摩をはじめとする雄藩諸侯も開国を主張し、むしろ、横浜開港をしぶる幕府の方が、開国に臆病だったのだ。西郷ら薩長志士のリーダーたちも、鎖国という意味での攘夷など、もう考えておらず、権力を薩長がとること、武力倒幕しか念頭になかった。
 ただ、排外主義、日本中心主義、侵略主義としての「攘夷思想」は決して否定されたのではなく、薩長明治維新政府の根本路線として残った。
 大日本帝国が朝鮮、台湾、さらに中国侵略、東南アジア侵略をすすめ、欧米と戦争をするようになったのは、水戸学に端を発する思想、ショーイニズム(松陰主義)がもとである。そのショーイニズムの亡霊は今も、ネット右翼諸氏の頭の中に巣くっている。