坂本龍馬

        坂本龍馬の暗殺

 幕末の不幸は、坂本龍馬が一人しかいなかったことであり、その龍馬が変革を前に暗殺されてしまったことである。
 坂本は、薩摩と土佐が協力するなら、内戦なしで新国家は進んでいけると信じていた。坂本はその線で、土佐強硬派の中岡をも説得しつつあった。武力倒幕に凝り固まっている薩長とも駆け引きしていた。が、坂本龍馬の死は、内戦回避を不可能としたし、海援隊の独自組織としての発展の道も閉ざした。内戦の火消しは、勝海舟たち江戸幕府側の仕事となった。
 海援隊の後は、岩崎の三菱財閥にひきつがれたとする見解もあるが、海援隊は単なる経済組織ではなかった。龍馬なきあと、藩の統制に服しない海援隊を快く思わない土佐藩はそれをすぐに解体した。
 のちのち師匠、勝海舟がとったスタンスから見ても、坂本龍馬が生きていたなら、新政府は、明治維新政府とはちがった道を進んだ可能性は高い。勝は、朝鮮への出兵は中国との戦争につながると反対したし、長州ショーイン主義の征韓論に対しては、中国、朝鮮、日本が対等に協力していくことを主張していた。清に対し、日本政府に期待すべきでない、とアドバイスしたのも彼である。
 歴史は、一藩孤立の中で、生き残りのために、全力で旧い藩組織を解体し、絶対主義政策を推し進めた長州藩の生き方がひな形となったというべきである。
 だが、歴史がそうなったからといって、それが正しかったとは言えない。明治以降の百数十年は誤った選択であった。幕末に、外国の風を感じながら、人々が自覚しはじめた藩を超えたもっと大きな広がりをもった公である「日本」は、今のネット右翼諸氏の言う小さく自己中心主義の「日本」とは違っていた。それが結局はショーイン主義に収斂してしまい、朝鮮、台湾、満州と膨張していき、世界戦争にまで行き着いてしまったことは残念なことなのである。