坂本龍馬 承前

坂本龍馬が生きていれば、薩長政権も、内戦もなかっただろう。
大政奉還後、京都では、土佐でさえ中立を守っており、最後まで、山内容堂は、薩長と徳川の戦いを私戦として、新政府が両者に停戦命令を出すようにと主張しつづけたからである。いわゆる錦の旗なるものは実は長州で大量制作せられたものであり、デザインからして、古記録を参考にして朝敵の長州と謹慎処分下にあった岩倉具視がでっちあげたものである。その後薩兵の武力で無法なクーデターを行い、それを正当化したにすぎない。そういう事情であれば、龍馬が薩長武力行使を防ぐ方向で動いたことはまちがいない。帰趨がどういう形になったかはともかく、大政奉還によってできた徳川をも含む新政府がそのまま進んでいったはずである。

歴史は、龍馬を失ったが、勝海舟と西郷が死ななかったので、(この二人も死んでいたら、内戦は必死だったろう。その場合、勝のいうように、徳川方をフランスが後押しし、薩長をイギリスが後押しすることになり、列強の代理戦争となっただろう。東西に日本が二分されるか、苛烈な内戦の結果統一が回復されても、すぐに植民地化しなくとも、一地域を援助のみかえりに租借するなどがあり、国力は消耗してしまうだろう。いずれ、植民地になったかもしれない)本格的な内戦にはいらず、外国の干渉もうけずにすんだのではあるが、薩長の攘夷思想を克服することができず、膨張主義におちいって100年後に日本は滅亡に瀕し、結局はアメリカの支配におちてしまっていること、今見る通りである。

明治維新があったから、列強の植民地にならずに済んだという主張は、事実とはちがう。薩長の武力倒幕の意図が貫徹して内戦になっていたら、植民地になっていたのだ。そうならなかったのは、不法な戦争挑発に正当な武力反撃をすることをがまんして、偽りの朝敵の汚名にもじっと耐え、恭順路線を貫いた徳川方が戦わなかったことが、それを防いだのだ。そして、それをうけた西郷隆盛が。当時の歴史を見るならば、不法な挑発により、戦争をしかけた薩長の側に非はある。薩長のつくった明治維新政府は百パーセントインチキである。薩長二藩が徳川方にしかけた戦争は、現在アメリカが国連の決議を利用してイラクに対して行っている侵略戦争と同じだ。

幕末に、龍馬や勝や西郷のような人物の数が足りなかったのが惜しまれる。それは今も同じである。