平和主義社会はなぜ生じるか

         平和主義社会はなぜ生じるか。

 ゲームの理論の信奉者たちが、平和主義者と好戦主義者からなる社会があると、平和主義者は淘汰されてしまうというモデルを提唱していた。現在の全ての平和主義をバカにする者たちの依拠しているのはこのモデルである。
 日本が平和憲法をもち、それに沿って生きようとしはじめた戦後の営為、心根を、まったく知らず、自分の意識が今の好戦カルトどもの環境に害されていることを自覚することのできない若者たちが、自分たちの先輩をなめきって、言葉の世界に遊んでいるのは、唯物論的に観て、当然とも言える。ボクだって、若い頃は、現実や歴史を知らず、その分を自分の狭い論理によって処理していた。若者の特権は今も昔もその傲慢かもしれない。
 ネットでは経験や体験ではなく、単純論理と物語が流通しやすい。マルチメディアといったって、文字テキストがベースである。あるいはそれがはじまりである。ネットを通じての交流はまずもって言語が現実にとってもっている制限と、おなじものを背負っている。

 彼らもいつか狭いゲームの外にある現実を知るさ、と世代論のベースで言うことはできない。われらをとりまくシステムの問題だからである。現に、日本はついにカルト思想の首相まで生み出し、それをみずから清算することができずにいる。小泉は現実を知らない、戦争のおそろしさも、他国の民族の背負っているものも理解できない、と百遍いっても彼をやめさせることはできない。そして、それと同じことを匿名のある2ちゃねらーが若い平和主義者をバカにしてよく言っている。

 ヒトラーナチスのカルトの害の経験を振り返って、「ファシズムが出現したら、いかに正しい言論で批判しても無力である。カルトの首領を除く、抹殺することだけが、洗脳を解く唯一の方法だ」と、語った人がいた。そうかもしれない、と思ったりもする。
 だが、平和主義の日本では、そんな変わり種のテロリストさえ生まれない。女性で首相官邸につっこもうとした人がいたといううわさを聞いた。が、かの戦後最後の革命期、1960年反安保決戦でも、一部の学生が国会構内に数回突入し、一人の犠牲者をだしたのみである。とことん平和社会のこの日本である。中国や朝鮮のまねをした強力による革命方針は、何度か、権威主義や、せっぱつまった心から試されなかったわけではないが、日本には根づかなかった。好戦主義をふりかざすネット右翼も、所詮は平和主義者にすぎない、ということは、以前は三島由紀夫全共闘などがいらだちとともに批判していたことにすぎないともいえる。

 だが、そんなに自民族をけなすものではない、と、今では菅井は見方を変えている。

 さっきのゲームの理論が知らなかったのは歴史である。どんな好戦主義者も平和(生産と建設、文化創造)なくしては生きられない。好戦主義者も戦ってばかりはいられない。自分が戦場を生き甲斐とする人種はいないとは主張しないが、すべてではない。
 純粋な平和主義者が殺され、排除されていっても、平和主義はつぎつぎ好戦主義者から補充されないわけにはいかない。現在の戦争の正当化理論、「テロに対する戦い」だって、平和主義が正しいとしなければなりたたないものだ。

 社会は戦争を常態とする好戦社会から、戦争を異常事態、あるべきでないものとする平和志向社会に移行しないわけにはいかない。

 その境い目は、好戦社会的人間と平和社会的人間の比率がある比率に達する時であるという仮説を提出しておこう。

 この「好戦社会的人間」、「平和社会的人間」とは、思想として、意識として、平和憲法を擁護するか否かということとは特に関係ない。どこかで、敵意が生じたとき、それに対して敵意で対抗する習性をもつものと、そうした場合にその敵意を解消させる行動をとろうとし、むしろ、敵意を使用しない習性をもつものとの違いである。日本は明らかに、後者の人間が事実として多い平和主義社会である。アメリカはまだ、前者の方が多い好戦社会なのではないかと思われる。(誤解を招くかもしれないが、この定義をつかうと、中国やイラクは好戦社会になるかもしれない。勿論、ボクはイラクアメリカ侵略に抵抗しているイラク愛国主義を支持している)

 日本だって、遠く戦国時代までは好戦社会だった。だが、今ではそうではない。日本国憲法は今の日本民族の現実にふさわしい最高法規なのである。

 好戦主義思想をいいつのる若者がどんなに多くても、愛国心から軍隊に入って戦おうという殊勝な人はふえないだろう。だから、徴兵令、国民皆兵制をしくしかなくなるだろう。最初はファッションとして受け入れられるかもしれない。そして、実際に戦わなければならなくなれば、多くの狂気が生じるだろう。その時になって、戦争はいやだと気がつく若者もでるだろうが、好戦メディアがうまくカルト的に発達していれば、その自分の気持ちを出せず、ノイローゼになるもの多数だろう。戦前の軍国主義のような無理な仕方をするしか、戦争遂行の方法はないのだが、60年前ほどはけっしてうまくいかないであろう。
 好戦社会アメリカでも、イラクにいかされた何人かの米軍兵士がおかしくなった。自殺者も出た。
 戦争は、自分の手足で他の人間を殺さなければできないのであり、いつかかなりの蓋然性で殺されるものでもあるのだ。
 戦争における直接行動、戦闘は、それ自体被支配者がやらされる仕事である。支配者、指導者がするのではない。実行すれば殺されるものが同じ人間であることはだれだってわかる。そして、そのことは自分の自由にならないのだ。十代の少年少女がそういう時代の到来の予感を体に感じて、強制により、つまり、自分の意志によってはどうにもならないものとしての殺人(戦争)をせざるを得なくなることを感じ、そのような強制ではなく、まったく自分の自由意志による殺人を試みることによって、自分の自由を確かめようとしたということだって、どこかにあるかもしれない。
 とりあえずは、自衛隊の募集が思うようにいかない、という程度の現実ではあるけれども、日本という社会は平和憲法をもって、平和社会を追及するイニシアチブをとるのが、唯一の道である。現在の小泉内閣がすすめている好戦社会への追従という回り道は、結局は実りをもたらすことはないが、日本人にとっても、世界にとっても大変な不幸をもたらすものである。
 そうなったところで、もちろん、変人である小泉純一郎氏は、相変わらずの多弁で、心に何のやましいところも感じないだろうということは残念ながら、ほぼまちがいない。