できないことについて

  「できないこと」考ー戦争の出来ない社会ー

 できないことは悪いことだ、というのは、能力社会・今の日本の常識だろう。能力のあるものがたくさんお金をかせぐ、いい暮らしをする、生きる資格がある、でなぜ悪い。能力がないものがやっていけないのはしかたがない、脱落しても本人の責任、きびしい競争社会なのだから、といったところだ。それと同一の思考が戦争の「できない」国、日本は生きていく資格がない、というネット右翼どもの常識である。「できない」ことは今の日本では悪いことなのである。平和主義者とは、「できない人間」だからどうしようもない。
 だが、これは、いつでも常識だったわけではない。少し前の日本はそれとは反対の理想にむけて進もうとしていた。それがネット右翼どものくさす「戦後民主主義」の本質であり、かつて一九六十年反安保闘争に賭けられていたものもそれだった。
 そして、伝統的な、実際に生存のぎりぎりであった日本社会でだって、そのような考えは常識ではなかった。
 今はほろびてしまった人々だが、ホームレスの前身ともいえる「乞(こじき)」という存在を御存知だうか。「食べ物を乞う」と書く。ぼくらの幼い頃にはまだそういう人びとは生きていた。道路端やガードの下に敷物をしいてすわり、お金を入れる器を置き、人が来るとひたすら頭をさげる。
 人々は時々一円、五円、十円の小銭を入れていく。チャリーンという音がそのたびになる。これは、実は、社寺仏閣に詣った時に入れるおさい銭と同質の行為なのである。人々の間をまわる托鉢僧やこつじき僧に喜捨(きしゃ)することと同質の行為であった。「できない」人も存在することが受け入れられている社会であった。アジアの国には、今でもこの習慣が残っている国は存在する。

 人殺しをしようと思えばできるが、とりあえずはしない人間と、しようとしてもどうしてもできない人間がいれば、実は、後者の方がよいのである。国も同じである。戦争をいつでもすることができるが、しない国と、戦争をしたくてもできない、そんな能力がない国は、後者の方がよいのである。前者はあぶなっかしくてしかたない。戦争ばかりしていた過去にはそういう国もましな国といえたが、今そんな国の仲間入りをしようとするのは、愚行である。