無理のできないということはよいことだ

     無理のできないということはよいことだ

ボクの実感から来ている。まず、夜起きていることができない。作業が複数あると、切り替えがにがてなため、集中がおちる。あるペースでしかものごとができない。

どうやら、今のボクはそのようにできているというしかないようだ。それは、息をしないことができるとか、食べ物をたべずにいられるということが不可能であるのと同じく不可能事なのだ。どこぞのカルト教団が空想の中でできると思ったところで、それは変わらない。

老化が原因、なにかの病気のため、などなのかもしれないし、そもそもボクという人間がそのようにできている、無理のできない存在だということなのかもしれない。ここは、後者だとしておこう。前者が理由であっても一向にかまわないのだが、前者を抱いているかぎり、今の事態は異常事とみる意識を脱せないからだ。

それは、すべての生き物に実はあることだと思う。もちろん、恐怖や、使命感は、それらを一時的に越えられることがある。だが、それが、ずっと続くことはできないし、そもそも、その越えることだって、無条件によいこととは限らない。

生き物にも、社会システムにも、固有の時間、ないしは時間進行があるのであって、ソレを飛び越した場合、別の問題が生じたりするものだ。

だが、まあ、飛び越してしまうことだってある。

だからといって、無理を気にしないことはよくない。無理できないことは悪いことではない。
むしろ、無理をしたいと思ってもできない体が望ましい。そういう体が沢山育っていけば、そんな無理は起こらなくなる。

たとえば、戦争という無理のことをボクは言っているわけだ。