再開します

長い事、日記がとぎれてしまい、申し訳ない。
やりのこしていることのあることは承知しているが、
とりあえず、再開させていただく。



唯物論が必要な時がまたやってきている。
理論をしっかり構えないと、危機はのりきれない。


意識も含めた僕自身の存在は、自分のおかれた環境と、
その環境に対する自身の態度によって
決定されている。


主体性とは、その関係性の意識による把握であり、
受動的にではなく、能動的にそれに向かうことなのである。


意識から独立であり、意識を決定するもの、
物質的な実践は何であるかをつかむこと。
その実践からはじめて、意識も行動も決定していくこと。


はじめは1つの実践にすぎない物質的な実践は、やがて、自立した、
それ自体からなる実践の体系として把握されるようになる。
繰り返すなら、その物質的実践の体系が、個体における物質的土台である。


歴史についての唯物論の定式である「土台ー上部構造論」は
マルクス派の理論の中で、特に評判が悪いものの一つであるが、
それを理論の大筋をつかむためのマップとして読むなら、なんら悪いものではない。


それどころか、個人についての唯物論においても、
その端緒に、土台ー上部構造論をおく事は、不可欠なステップである。
土台ー上部構造論がまちがっているのではなく、いかなる実践が土台であるのかを、
つかむことが困難なのである。というか、たいていの批判者は、
それを自分の頭と体で思考、探索しようとしない。批判者のほとんどは
そこに特別な問題があるとは思っていないのである。



註 ここでの文章は、自分の理論的実践的探求のために、書かれている。
だから、今のところ、筆者と唯物論の立場や理論を共有していないひとに対して、
親切な書き方になっていない。唯物論については、
マンガ家の故・青木雄二さんも絶賛している森信成さんの「唯物論哲学入門」(新泉社刊)
を参照されたい。だいぶ前に書かれたものであるが、今でも、啓蒙的な書物ではこれが一番よい。
最新版の巻末、山本さんによる解説は、最近の流れに譲歩してか、
唯物論哲学についてあまり触れず、その一理論(疎外論)についての評価になっていて、残念である。