わたしの平和主義

 だいぶ日記を書かなかった。

 菅井は平和主義者である。ものごとは当事者による話し合いで決めるもので、陰謀、権力、暴力、軍事力で決するべきものではない。特に今の時代において、陰謀、権力、強力、暴力、軍事力、戦争でものごとを決めようと考えるひとびとはじだいおくれとしかかんがえられない。
 だが、菅井が平和主義である理由は、今の世界に対する認識にも、民主主義者、社会主義者としての思想にもよっているが、それだけではない。
 なによりも菅井が非力であるからである。小さい時から武術も学ばず、けんかも弱く、陰謀するだけの頭のよさも、感覚ですばやく空気を読む能力もない。要するに、戦争になったらまず確実に生き残れないのが菅井である。だから、戦争は絶対いやなのである。アジア・太平洋戦争のエピソードの中でも、身障者たちや動物たちの運命はむしろ菅井には近しく感じられる。
 広島に原爆が落ちたとき、勇敢に働いて災厄を少しでも緩和しようとした人がいた。そういう人々も平和主義者となったことは事実である。そういう立派な平和主義者の人々もたくさんいて、ネット上でも活躍されている。菅井もそういう人びとのおかげをこうむっている。
 だが、菅井はとても及ぶことはできない。そういう極限情況ではきっと無力であり、真っ先に死ぬだろう。菅井の社会主義組織での10年あまりの努力の無為もそのことを示した。
 だから、菅井がもし特権者の仲間入りをして、多くの人が被害を被っても自分だけは逃れられる境遇だったなら、菅井は平気で好戦主義者になっていたかもしれない。
 菅井は自分が殺されるのはいやであるが、人が殺されるのもいやである。ついでに血を見るのもいやである。手術と名のつくものは受けたこともない。
 だが、弱虫だから平和主義だという菅井の立ち位置を菅井自身は、いろいろあっても、いやではない。そういう人だってすくないとは思わない。
 好戦主義者(ネット右翼、嫌・中朝韓の排外主義屈米主義者、反共主義者、部落差別者・・・)だって、中国人や韓国人の過激派にネット上で日本の過去の侵略行為を正面きってなじられて、こんちくしょうと思ってなった連中も多いのだから。