KYN 空気を読めない人々

KYということばがある。空気をよめない人ということらしい。KYなら空気を読むのはずだが、それがどうしたことか空気が読めないになっている。本当なら、空気を読んでしまう人をKYと言わねばならない。空気を読まないなら、KYNだろう。

人は コトバと感覚を どうつかうかに よって 様々である。
コトバを コミュニケーションに使い、 感覚を 実践的な生き残りのためにつかう これが多い。
が、コトバを実践的な生き残りのために使い、感覚をコミュニケーションに使うという逆転もある。さきに述べたKY (空気をよめない、の方)といわれる人はこういうパターンが多い。
この場合、コトバは他者にとっては常にあいまいである。コトバは自分にとってあるからである。コミュニケーションのリアリティはコトバのやりとりの中にあるのではなく、感覚的な共感にある。そのことが一義的なコトバの使用にこだわらざるを得ない多数派の空気を読んでしまう人々には、また侮蔑の種になったりする。
 この二種類は質的なちがいである。それが理解されない ことがトラブルのもととなる。
 差別のもとになる。
 後者においては、感覚を通じた外部の問題は、後者のように感覚的に一瞬に調整されるのではなく、おりのようにたまっていく。違和感、重苦しさとして。だが、言語を通じた新たな把握が発生するまでは、自覚されることはない。