明治維新

明治維新が生じる直前、薩長が、岩倉具視と組んで、宮中で違法な軍事クーデターを実行したことは歴史的事実だ。

この以前、朝敵とは、長州のことであり、幕府のことではなかった。

このクーデターで、長州は官軍、幕府が朝敵という構図が作り上げられてすべてが入れ替わる。

このクーデターは、もちろん合法的ではない。幕府側が、その前に討幕の偽勅を薩長と岩倉が造ったことも含めて、断固としてその非合法性をつくことはできたのである。また、薩長は本気で戦さをするつもりだったのであり、もし、幕府(というよりは徳川慶喜)がひたすら不戦、という方針を貫かなかったなら、日本を二つに分けた内戦が起こり、たくさんの人が死んだだろう。外国軍隊の干渉だってあったかもしれない。
その時に、大久保や西郷、大村、木戸、板倉が虐殺者として記録されないと言えるだろうか。

我が国で、ロシアにおける憲法制定会議の解散は繰り返し非難され、それが、全虐殺の原因であるかのようにいわれるのに、なぜ薩長のクーデターはまったく非難されないのだろうか。

その理由は簡単だと思う。
ソ連は解体され、現在ない。外国のことである。だが、明治維新薩長政府は、若干の修正をしたが、今も存続している。そして、自分たちのことである。

その体制がまともになるかどうかは、その体制の中で、その体制があるときに、その体制の内側できちんとした批判がなされ、直っていけるかどうかにかかっている。

この明治維新のはじめにあった宮中クーデターと、レーニン憲法制定会議の解散は、どちらも、法律的には是認されない決断であるが、一方は、内戦の遠因となり、他方は薩長の意図に反して、そうならなかった。歴史とは、そういうことがある。