仮説をたててみる

中小の飲食店で中国人をはじめとする東南アジアの人が労働力として増え続けている実感がある。テレビでそうした店の経営者がなぜそうするのかということについて、

労働態度が真面目であり、
仕事に対する研究もよくする

から、といっているのを見た。

つまり、日本人労働者は、
すぐやめたり、休んだり、
あまり熱心でない
募集しても集まらない

というわけである。
 つまり、日本人は真面目に働こうとすれば、働けるのにそうしないので、しょうがないから、外国人労働者をやとっているといいたいのである。

 だが、待ってほしい。日本人の若い人々は労働力の売り手市場で、引く手あまただから、条件の悪い中小の飲食店には集まらないのだろうか。そうではない。若い人々の失業率の高いのはまぎれもない事実である。

 確かに、コンビニでも外国人の人が働いているのをよく見かけるようになった。彼らは専門知識の話を聞くとわからない人も多いが、総じて日本語も堪能で、金の計算もしっかりしている。
 日本人の若い人には、こんなに中国語や朝鮮語や・・・ができる人はいないだろう。外国の若い人のほうが日本の若い人より優秀なのだろうか。日本人は高度成長期の贅沢になれて怠け者になってしまったのだろうか。

 そんな風に言わんばかりの風潮が一部にできあがっていくような気がする。

 だが、そういう傾向が見られるようになったはじめの頃、回転寿しの店員に外国の人がいるように成った頃、日本人の若い人は、コンビニや飲食店の仕事について、時給が安すぎてやっていけないから、つとめないと話しているのをよく聞いた。要するに、低賃金なのである。

 公立学校に通い、学生時代も寮に入り、風呂つきのアパートに一度もいたことのない菅井は、最近の若い人は贅沢だな、と当時は確かに思った。大学では、賄い付きの4畳半や二人部屋の木造寮が普通であった我々の世代は、1年から風呂付きのワンルームマンションにいるのが当たり前だといわれた時も贅沢になったものだなと思った。
 今になってみれば。それは特別贅沢でないし、都市で一人暮らしをするのであれば、ぎりぎりのものでしかない。銭湯も少なくなってしまったし、仮に風呂なしの銭湯生活をしたところでそれほど安上がりにはならなくなった。たとえ近くにあったとしても、銭湯は限られた時間しかあいていなく、現代の不規則な就業時間に即応することはできない。
 時給と臨時雇いの形態が常態である中小の飲食店で働くことは、ぎりぎりの生活を回転させるにも足りないのである。いささか傲慢に聞こえるような感じで、時給がこんな安くちゃ、やれないよと言っていた若者は、別にいつわりを言っていたわけではない。

 それに対して、外国人はずいぶん違うように思う。第一に、彼らは、一生中小飲食店で賃労働を続けていく気はないのである。むしろ、その職種を一生懸命にやって、自分が母国で、あるいは日本で経営者になることを目指しているみたいだ。その為に節約し、金をため、経験を磨いている。実際に成功する人間がどのくらいなのかはわからないが、彼らは、自分の未来のための準備期間として、未来のために生きているみたいだ。日本と中国の物価の格差も彼らに多少は有利である。仕送りや貯金は、日本で使うことを考えればたいした額でないとしても、母国にあっては、家が建ったり、商売が始められるかもしれない。

 日本人の若い賃労働者はもっと刹那的である。今コンビニで働いても、店長になれる者はひとにぎりだし、自分で店を出せるなどはありえない。むしろ、働かなければやっていけないから働いているので、二十年後にもやはり賃労働をしているか、へたをすれば失業者である。それは彼らにとって安定した未来と映るだろうか。

 思うに、今、日本の中小飲食店で気に入られはたらいている外国の人々は、日本人で言えば、中国語を学び、上海へ自分の能力を試しに働きに言っている若い日本人たちに近いので、今、現実に中小の飲食店の単純労働から排除されていっている(ようにみえる)日本人に、対応した外国人ではないのではなかろうか。資本家や成功者になる希望がある人たちなのである。

 外国人にだって、日本に来たけど、日本語がうまくつかえない人はいるだろう。教育の普及率の数字を比較すれば、むしろ多いはずである。日本にわたって来れるというだけで、ふるいにかけられているだろうが。簡単な話ならできるけど、複雑な金勘定や製品管理はできない人はいるのではないか。そういう外国人は、日本の若者と同様に労働に入っていく事はできないだろうし、中小飲食店の主人に歓迎されることもありそうもないと思うのだ。だが、そういう人だって生きていくには生活費がいる。希望はなくても生きていかなければならない。

 アメリカ型競争主義資本主義が日本を浸食していき、その過程で、中小飲食店はますます人件費、材料費を切り詰めなければならなくなり、すでに、日本の若い賃労働者たちに充分な生活費を提供できなくなっていること、彼らがもう少し豊かな生活が当たりまえだと思う一方で、その条件や教育を連帯して手にいれる手段(社会主義とはそういう運動のことである)を持たないことから、切り捨てられつつあること。事柄の真実はそれであるように思う。

 今現在、日本人の若い人に置き換わっているのが、低賃金でも働くことが可能で、彼らよりもむしろ教育の高い部分の外国人(エリートといっては違うかもしれないが)であるのではないか、という仮説の提出が今日の日記の全てです。