主体(チェチェ)思想

 朝鮮社会主義をとことん混迷におとしこんでいるのは、朝鮮労働党が独自に打ち出している「主体(チェチェ)思想」である。

 主体思想の名を冠した日朝友好組織に名を連ねることや、主体思想研究者だと見なされれば、攻撃される世の中であるが、主体思想のどこがまちがっているのかは、あまり、語られているとは思えないので、書いておきたいと思う。


 それは、唯物論、つまりは、科学的精神、客観的分析への道の否定なのである。


 主体思想研究組織のホームページに載せられている主体思想の説明は、マルクス唯物論エンゲルスレーニンによる定式である)をおおむね正しく要約したあとで、次のようにそれを否定している。


《しかし、、 物質と意識の関係を科学的に解決し、、 それにもとづいて定立された唯物弁証法
的世界観も、、 人間の運命開拓の道を解明するうえで本質的限界をもっていた。。
人間の運命を開拓するためには、、 世界を支配し改造しなければならないが、、 弁証法的唯
物論はそれに直接応えることができなかった。。
マルクスは、、 従来の観照唯物論 (世界をただ説明するのにとどまった唯物論をこう呼
んだ) を批判しながら、、 重要なのは世界を変革することであるとし、、 自分の哲学は世界を
変革するための武器であるといった。
マルクスのこの言葉を正しく理解する必要がある。
マルクスが、、 弁証法唯物論を変革の武器であるといったのは、、 世界を変革するために
は、、 物質世界の本質とその運動の一般的合法則性を科学的に解明した、、 弁証法唯物論
原理に即して思考し、、 行動すべきであるという意味をもっている。。 物質世界の本質とその
運動の一般的合法則性を科学的に解明した弁証法の原理は、、 世界を認識し改造するうえで
依拠すべき一つの方法論とはなるが、、 人間の運命を開拓する根本的方途については直接教
えていない。。 それは世界が物質から成り立っており、、 たえず変化発展するということから
は、、 人間が世界を支配しうるか否か、、 世界の改造において人間が決定的役割を果たすのか、、
あるいは他の存在が決定的役割を果たすのか、、 世界を認識し改造するためには、、 世界をど
のような観点と立場でとらえなければならないのかという解答、、 いいかえれば、、 人間の運
命を開拓するうえで必要な根本的で重要な問題にたいする解答が得られないからである。》


 主体思想の出発点であり、その誤謬、観念論を現している。

 
 科学的分析が行われるべきところを主体思想の教えが占めてしまうので、これでは、思考ではなく、教条が、支配してしまう以外にはない。


 しかし、ここには、主体思想の問題意識それ自身も表現されている。


 朝鮮民族は、自分たちの自主性を実現することができるのだろうか、それとも、日本に植民地化されていたため自分で生きていく能力を失っているのだろうか。日本でなければ、大国(ソ連や中国)にすがって生きていくしかないのだろうか。あるいはアメリカに屈する以外にないのだろうか。


 もちろん、そんなことはない。朝鮮民族は長い歴史をもった民族である。いろいろな歴史的事情があるとはいえ、彼らも自分の独立と発展をしている。しかし、それは現在の世界の賃労働者階級の闘いの水準に依存していることが事実である。その分析に基づいたしたたかな実践が必要である。たとえばキューバのように。
 朝鮮も、中ソ対立、ソ連の解体による社会主義世界経済連携の消滅などによって困難に陥った。そういった階級闘争の現局面の分析を行って打開の方針を見いだすのでなく、将軍さまのコトバによる保証に自分たちの自主独立の根拠を求めようとするのなら、それはまちがいだらけとならざるを得ない。
 スターリン主義の教条が、マルクス社会主義唯物論的、科学的精神を著しくゆがめたことは事実だが、唯物論の原則は、それを正す理論的武器にもなった。朝鮮労働党主体思想は、その唯物論を単なる認識原理とみなし、自ら状況を分析してそれにもとづけて方針を立てよ、という唯物論の根本を事実上否定してしまった。実践や政治については、主体思想という上から与えられる主観的な教条が支配することになってしまったのである。




 こんなことも考えてみる。朝鮮の社会主義には、社会主義理論に民族自主を統合するという歴史的使命が与えられているのかもしれない、と。だが、主体思想はその正しい解決ではない。