国家のもつべきもの

 日本の支配層のある部分は、明確に、アメリカべったりの小泉政権の方針では、日本の資本主義はやっていけない、と危機感をもち、動き始めたと書いたが、日経にのった安藤氏のコラムはそれをはっきりと示していると思う。小泉とその継承者に、批判をつのらせているのは、今や切り捨てられ、犠牲を強いられている諸民層だけではない。

《(8/7)威信低下によって失ったもの(安藤茂彌氏)
 またイスラエルとアラブとの戦争が始まっている。今回の相手はパレスチナ解放戦線ではない。ヒズボラである。それにしても「またか」という気がする。しかし、アメリカの対応は違っている。国連をはじめ世界の世論が「即時停戦」と呼びかける中で、アメリカだけが「停戦するな」と言い張っているのである。安全保障理事会の即時停戦決議にも拒否権を発動する執拗さである。》

 アメリカの態度を批判しているわけだが、その文中に 次のような部分があって、考えさせられた。

アメリカは経済的にも軍事的にも世界の超大国である。超大国には超大国なりの身の振り方があるはずである。超大国が地域紛争の一方の当事国に加担し続けるとどうなるか。もはや、その国には紛争を調停する能力はなくなる。多くの国はそう見るだろう。ライス長官が地球を何周しようとも無駄である。》

 「紛争調停能力」という言葉に気がつかされた。アメリカに加担し続けている我が国が、紛争を調停する能力をとうに失っていたのは当たり前で、だから、小泉の中東訪問がお気楽な観光旅行に終わったのは、最初からわかっていたことなのだ。思えば、ついこの間、イラク侵略に加担する以前は、まだ日本国は、多くの国によって、紛争調停能力を期待されていた。アジア・太平洋戦争後50年以上努力し築き上げてきた、経済関係の力も大きかったのだ。それらを無駄にしてしまったように、世界に今、日本の調停能力を期待する世論はない。イスラエルのようなおさわがせ国家になってしまった。
 我々日本人が今の情けない限りの日本国家を正すとしたら、超大国になどなる必要は無論ないが、その目標の内に、「紛争調停能力の回復」をぜひ入れねばならない。