NHKつぶしに反対する

  NHKを縮小、事実上解体してしまおう、という動きが政府にある。

  まず、NHKは大きすぎて、民間のやる分をもっとふやさなければならないというのだそうだ。資本が、公共の部分にまではいって金儲けをさせろといっているのだ。公共財産は、民放や投資会社に買いたたかれる。そういうことだ。だが、それだけではない。


 これに関して、思い出されることがある。一つは、1970年頃に起こった東京教育大学の解体と、筑波大学の設置だ。教育界に大きな影響をもっていた東京高等師範学校の後身、が東京教育大学だったが、民主教育の推進の中心であり、また、学生たちの民主的な勢力がそこにはあった。それを国家は解体し、教師たちを首にして、改めて別設置の筑波大学には政府にさからわない教員が集められた。自民党政府が、民主的勢力の中心と見なして、この大学をつぶしたのだということはまちがいない。でなければ、単なる移転問題にしかならなかったことだ。生き生きとして魅力的だった東京教育大学はつぶされ、代わりに、自殺者のよく出る砂漠のような筑波大学ができた。
 菅井は、70年当時はやっていた大学解体論には組しないが、東京教育大学をつぶすのではなく、東大をつぶしていたらよかったのに、と今はおもう。それは、東京教育大をつぶし、東大を残す選択をした実際の歴史とは別のシンボル的意義をもちえたはずと思うからである。
 その国立大学も、国立病院も、諸民には知らされないうちに、いつのまにか、すでに民営化に移行させられてしまっている。


 また、国鉄の民営化、JRへの移行のことも思い出される。あれも、当時最も強力な労働組合の一つが国鉄労働組合であった。民営化は、実質的に新幹線建設資金の赤字を除けば、黒字運営をしていた国鉄にとってはいちゃもんであり、真の理由は、強力な労組をつぶすこと、および、国有財産を叩き売りして大企業に売り渡すことだった。国の骨格をなす輸送を確保するために誇りをもって働いていた鉄道マンたちは首切られ、従順なサラリーマンだけが再雇用された。JRに変わって一番かわったことは、駅員たちの目つきだった。卑くつで自信のない目つきだった。彼らは当局にさからわないことを誓って、仕事を続けさせてもらえることになったのだ。一方、駅の構内にはやたら宣伝広告がふえ、喫茶店や店がおかれ、そこでは、はじめのうち、たたきあげの鉄道マンという感じの人が慣れない仕事に屈辱に耐えている目をして黙々とはたらいていたのを覚えている。その人たちもまもなくいなくなった。
 最近の大事故はその時に端を発している。自分のやっている仕事の国民的意義を自覚して仕事をするのではなく、上の者の顔色を見、上の命令に従うことにきゅうきゅうとなるような職場になってしまったのだ。
 
 NHKは時間と予算をしっかりかけたいいドキュメンダリーをつくったり、紹介したりしている。放送番組は、本来、思いつきで簡単にできるものではないのだ。その中には、政府が気に入らないものもあったりする。文化的なもの作りのしくみもあるはずだ。それを壊す事は国民にとっては損失なのに、国家にとっては都合がいいのだ。もともと、文化にも諸民にも関心のない新自由主義だ。民間の金もうけになればいい。何が壊れようとどうでもいい、いや、NHKのような真面目な文化の一面は、彼らにとっては都合が悪いのだ。だから、壊されようとしている。あとには、フジテレビの亜流や、低予算の思いつき的なお手軽番組が増殖するだけだ。
 

 菅井は、このNHK解体案に反対である。「みんなの歌」や「天才てれび君」や「海外ドキュメンタリーシリーズ」や、今はなき「新日本紀行」が好きだからだけではない。