敗北のジャーナリズムから革命のジャーナリズムへ

  けしからんという言葉を除くと、支配階級のもくろんでいることと同じことしか見ない、同じ目線でしか現実をとらえられない、それを敗北のジャーナリズムと呼ぶ。たとえ、冷静に、帝国主義の非道の事実を示していても、である。帝国主義は、諸民向けの綺麗ごととしては、そのように説明しなくとも、本心はそれを当然のことと受け取っている。両者は同じ未来を語っているのである。


 いくつかの意識的にジャーナリズムとしてふるまうサイトや、個人でも、ライブドアのパプリックジャーナリストには、ジャーナリズム、世論喚起の公器としての機能がある。
 そのジャーナリズムの世界が一色になっていることに問題があるのだ。


 批判しているように見えるサイトが、まちがっている、という一言をとりされば、同じことしか伝えていない時、それは本質的には、論敵の精神によって語っていることでしかないのである。
 残念ながら、アジア・太平洋戦争の時の多くの良心的なジャーナリズムは、この敗北のジャーナリズムを抜けることはなかったように思う。

 
 ジャーナリズムは必要である。だが、それは敗北のジャーナリズムではなくて、革命のジャーナリズムなのだ。