Kさんの死

 先日、実家にもどって母からKさんがなくなったと聞かされた。そのいいぐさがぐさっときた。「前にうちで働いていたKさんって覚えている?」ボクからすれば、覚えているに決まってるだろう、なのだ。母はその程度にしか思い出さないのか。Kさんの妹さんから連絡があったのだという。

 Kさんは、小さな個人経営の事業をしていた菅井の父のところで働いていた住み込み店員だった。日本がまだ中進国とよばれ、地道に経済の建設にとりくんでいた時代で、Kさんは、中卒で北海道から上京し、うち(父のところ)に就職してずっと働いていた。中卒が金の卵とおだてられ低賃金で働いていた時代だ。
 けっこう景気が良かった時期もあって、数人の従業員がいた時もあり、まだ小さかった菅井は彼らとけっこう仲がよく、遊んでもらったりした。仕事におわれて両親はいそがしく、子供にかまう時間がなかったため、むしろ両親よりボクは彼らとの方が親しかったといえるぐらいだった。しだいに景気が悪くなり、いつしか従業員はKさんだけとなった。家族のような存在であり、Kさん自身も、自分のうちのように思う面があったようだ。ボクにおこづかいをくれたりすることもあった。
 そのKさんが神経を病み、また、近所に友達のグループをつくって出歩いて生活が不規則になった。今にして思えばその頃Kさんは20台後半だったと思う。その他、いろいろなこともあったのだろうが、父は困った、困ったを繰り返すだけで、何の行動もとらなかった。Kさんなしでは仕事は進まない。が、Kさんは精神的に不安定になる一方だった。が、父は積極的には何のケアもしなかった。

 そして、ある日、母が切れた。そう、ボクには切れたとしか感じようがなかった。

 うちは個人経営にはけっこうよくあるパターンだが、まったくの父のワンマン経営だった。母もKさんも父の命令で動くので、父が決めなければ何も進まなかった。ある日、突然父は言い出し、そしてそうなる。ボクの進路も習い事も、そんなものだった。あ、そろばん塾だけは、やる気でやってたけれど。そして、進学塾に通うことになって必死にがんばったけど両立できず、やめてしまったんだった。ま、それはともかく、父のいうことがわからず母はよくおこられていた。母に感情移入して、離婚してしまえばいいのに、なんて思ったこともあった。

 ある日、母と二人で外を歩いていた時に、母は突然ボクに「父親は優柔不断でしょうがない。Kさんを首にしようと思う」と言った。ボクはショックをうけた。
 Kさんなしのうちの仕事は今までのようにやることはできない。母も家族従業員ではあるが、メインの役はこなせない。それでいて、父はKさんに相談にのるとか、ケアをするとかいうことは何もしないでいた。菅井も小さいながらも、家族同然のKさんをなんでほったらかしにしてるんだろうと、感じていた。母もそう思っているものと思っていたのだが、ちがっていたのだ。

 それまでうちの仕事に母が決定権を行使しようとしたことなど、一度もなかった。「父親は今のやり方を変えるのを恐れて何もしないでいる。Kさんをかかえてこのままでは、うちはつぶれてしまう。どうあってもKさんを首にしなければ、」と母は思ったのだろう。それを息子に言って支持してもらいたかったのではないかと思う。
 だが、母親の強い調子におされながら、あれこれいってみたが、ボクは母の言葉に同意することができず結局押し黙り通した。ボクには、Kさんを切るという母の言葉はボクを切ると言っているのと等しいと感じられた。

 その後、母は積極的に行動して、Kさんにも因果をふくめ、とうとうやめさせてしまった。それ以後、父の事業は事実上父と母だけの経営になり、バイトの従業員をとっかえひっかえしながらやっていくことになる。前とずいぶん変わることになる。
 ボクは、引っ越して、別の職場をさがしてみるつもりだと言って、出て行った日のKさんの堅い表情を思い出す。
 
 そのKさんがなくなったことを母に電話で知らせてきたKさんの妹さんに、じゃあ、骨は北海道にもどるのですか、と母は聞いた。いろんな事情があってそれはできないんですよ、と答えたそうだ。Kさんは独身、60台でなくなった。